目次
動画でも解説しております
はじめに
観相学を学ぶコーナーはいったんストップしまして、今後はちょっと偉人の観相学系のコーナーにしようと試みてみます。
偉人系観相学、栄えある第一回は「田中角栄」氏です。リクエストも結構頂いていた人物です。
今までこのサイトでは多くの「悪人観相学」をやってきて、善人の記事をアップしてくれというリクエストを頂いてたんですが、何を基準に「善人」という認定をしていいかが難しいですし。
いくら僕がその記事を作っても、わからない人にはわからないと考えるので、善人というよりは偉人を鑑定していくシリーズにしました。
人間、どんな善人であっても挫折したり、怒ったり、喧嘩したりもします。だって人間ですからね。
事実、今回の田中角栄氏も首相までなっていますが、逮捕もされています。
人それぞれ評価は違いますが、今でも彼を尊敬している人が多いのも事実であります。
ダウンタウンの浜ちゃんも「田中角栄氏を尊敬している」と、ガキ使のクイズの企画で言ってたような気もします。僕のうろ覚えだったらすいません。
当サイトは若い人もいますので、田中角栄氏が何をしたのか?ひょっとしたら誰なの?という人もいるかと存じますので、何をした人かの説明から、観相学で観るコーナーにしていきましょう。
もし万が一、悪い占断になったとて、故人ですので名誉棄損で訴えられないので安心は安心です。では今日の項目です。
- 田中角栄氏は何をした人なのか?人生を紹介
- 田中角栄氏を観相学で観る
- 田中角栄氏から何を学ぶか
の三項目でいきましょう。よろしくお願いいたします。
年配の方で彼が何をしたのかをわかっているという方は観相学の部分まで記事を飛ばしてくださいね。ではまず
1.田中角栄氏は何をした人なのか?人生を紹介
生い立ち田中角栄は大正7年(1918年)に新潟県で生まれました。8人兄弟の次男でした。
田中家は父親が事業の失敗によって極貧の生活を送っていましたが、田中自身はすこぶる成績も良かったらしく、高等小学校では級長を務め、卒業時には総代として答辞を読むほどでした。田中の秀才ぶりは小学校時代の教師が書き残しています。
学校で習ったことを家で復習しようとすると、母親から
と言われたそうです。
そこで田中のことが心配になった教師が「本当に家で勉強していないのか?」と問うと、田中は「いや、勉強しています」と答えます。
家に本やノートを持ち帰らず、部屋の天井を架空の黒板代わりにして復習していたのだとか。
田中はノートを取らずに頭で理解するタイプだったため、それが可能でした。
田中は優秀でしたが、貧乏だった家庭の事情では許されません。
高等小学校を卒業した田中は土木派遣所で働くようになりました。
その現場で働く年配者から、田中はこう言われたそうです。
「土木だと馬鹿にする人間もいるが、パナマ運河で太平洋と大西洋を繋いでみたり、スエズ運河で地中海とインド洋を結んだのもみな土木だ。土木は地球の彫刻家だよ。」
のちに田中は「土木代議士」と揶揄されるのですが、土木こそが日本の発展を支える屋台骨だと確信していたのでしょう。
上京し、社長になるまで
昭和9年、田中が東京へ出るチャンスが訪れます。
理化学研究所の大河内正敏が、書生として迎えてくれるというのです。
大河内といえば大正天皇の御学友であり、工学の第一人者といえる人物でした。
東京へ行けば勉強できると考えた田中は上京します。
ところが東京へ着いてみると、書生になれるという話は全く通っておらず、門前払いを食らいました。
失意に打ちひしがれた田中でしたが、今さら新潟へ帰れないので、土建会社に住み込みで働きながら、夜は神田の中央工学校に通いました。
その後は、雑誌の記者をしたり、貿易会社など職を転々としましたが、やがて職業軍人になることを志し、海軍兵学校へ入る猛勉強を始めました。
しかしそんな矢先、母が病気で倒れたという知らせを受けます。職業軍人になったからといって、出世しなければ意味がありません。
仮に10年務めて大尉になったとしても給与は100円ちょっと。現在の価値にすれば25万円程度でしょうか。
それでは病気の母に尽くすことができませんし、息子の務めも果たせませんので、田中は一念発起して実業家の道を目指していきます。
昭和11年、中央工学校を卒業して建築事務所に勤め、主催者が軍に徴集されたこともあって事業を継承します。
田中は独立を果たしました。
事業は順調そのもので、500円もの月収があったそうです。
この時期に田中はたまたま大河内正敏と会い、そのまま意気投合します。その後、田中を部屋に呼んだ大河内は、かつて自分が門前払いを食らわせた相手だと知りました。
また大河内は「柏崎鉄工の祖」と呼ばれるほど柏崎の産業発展に尽くした人物ですから、奇しくも田中との繋がりに親しみを覚えたのです。
その後は理化学研究所からの仕事が次々に舞い込むようになります。
昭和13年、田中は徴集されて陸軍に入営し、満州で兵役に就きます。2年後、病気で帰国。その後は建築事務所を設立し、結婚をします。
昭和19年には、のちに政治家を継ぐことになる眞紀子が生まれています。
その後、田中土建工業株式会社を創立。初代社長になります。
昭和20年に敗戦を迎えると、朝鮮半島にいた田中は帰国。
さいわい会社が戦災を受けなかったこともあって、事業を再スタートさせます。
時は終戦直後の混乱期ですが、田中は理研からの仕事を請け負っていたこともあり、巨額の資金を手にします。
27歳で田中自身のエネルギッシュさもあり、いよいよ国政へと身を投じることになります。
政治家活動をスタート
当時、田中土建工業の顧問をしていた大麻唯男(おおあさただお)という政治家がいました。
大麻は
と田中に要請します。
今でいえば18億円という大金ですが、田中はその頼みを快く了承します。
さらに大麻は、田中に対して衆議院選挙への出馬を強く勧めます。
ちょうどGHQによる公職追放がピークを迎えた時期にあり、政財官界の有力者たちが次々に追放されていました。
大麻が所属していた進歩党も例外ではなく、所属議員274人中、260人の代議士たちが追放の憂き目に遭っていました。
このままでは進歩党の解体は時間の問題。少しでも議員を増やす必要に迫られており、田中に白羽の矢が立ったのです。
最初は断っていた田中ですが、大麻の熱意に負けてとうとう出馬することになります。
昭和21年、故郷の新潟2区から進歩党公認で立候補したものの、候補37人中11位で落選。
翌年、日本国憲法が発布されて最初の総選挙となった第23回総選挙において、新潟3区から民主党から立候補。初当選を果たします。28歳という若さでした。
こうして政治家活動をスタートさせた田中ですが、いきなりピンチを迎えます。
臨時石炭鉱業管理法の法案提出に反対票を投じ、離党勧告を受けてしまいます。
同じ理由で離党した議員たちとともに同志クラブ(民主クラブ)を設立します。しかし25人の弱小政党でした。
ピンチがチャンスに変わるときがやって来ます。
昭和23年、同志クラブが日本自由党と合流を果たして民主自由党と名を変え、田中は最大与党となったのです。
これがのちの自由民主党の母体になります。
昭和電工事件によって芦田内閣が総辞職すると、第2次吉田内閣が発足します。田中は以前から吉田茂と関係を深めており、吉田13人衆と呼ばれていました。
吉田政権においては法務政務次官という大臣に次ぐ地位に抜擢されます。
田中はまだ1度しか当選していない新米代議士だったわけですが、こういった人事を見ると、吉田の田中に対する期待の大きさがうかがえます。
しかし田中の政治家人生が順風満帆だったわけではありません。
田中が民主党を離党するキッカケとなった炭鉱国家管理法案が成立した際、炭鉱オーナー側が反対議員に贈賄したという疑惑が発生し、それは疑獄事件へと発展したからです。
田中の自宅や会社が家宅捜索を受け、田中自身も逮捕、東京拘置所へ収監されました。
衆議院が解散して総選挙が実施されます。
田中も獄中にありながら立候補し、ほとんど選挙活動ができない中にあって、なんと再選を果たすのです。
地元新潟の若い有権者たちは、田中の行動力とバイタリティに期待して票を投じており、田中こそが戦後復興を成し遂げる存在だと認めたからでしょう。
昭和26年には疑獄事件において田中の逆転無罪が確定しています。
昭和27年、昭和28年の総選挙では連続トップ当選を果たした田中は、いよいよ政治基盤を確かなものとしました。
また中央政界において、政治活動だけでなく人脈作りをしていきます。
昭和30年、田中の所属する自由党は日本民主党と合同して自由民主党を結党。55年体制と呼ばれる自民党主導の政治体制がスタートします。
その2年後、岸内閣において田中は郵政大臣に指名・就任します。30代の若さでの就任は戦後初めてのことです。
さらに昭和37年、大蔵大臣に就任、昭和40年には自民党幹事長となって、名実ともに政治の中枢で存在感を発揮します。
田中は官僚たちをうまく使いこなすことで、高度経済成長にも対応できる無二の政治家として世論に印象付けました。
各業界・団体から莫大な政治献金を獲得し、支援者からの集票能力を強めていきました。
政治家としての活躍
昭和47年、自民党総裁に就任し、田中内閣が誕生します。
これまで東海道新幹線のみだった新幹線路線を全国へ広げ、本州四国連絡橋建設の基本計画などが指示されました。
いっぽう田中にとって中国問題も解決するべき課題でした。
昭和26年に結ばれたサンフランシスコ平和条約において中華人民共和国は参加しておらず、両国の国交正常化が急がれていました。
マスコミを利用して「中国との国交正常化こそが国際的な安定をもたらす」ことを国民に印象付けます。
田中は首相に就任して2ヶ月後、日米首脳会談を終えると中国へ渡って、周恩来首相や毛沢東らと会談。次いで共同声明を発して日中国交正常化を果たしました。
外交問題や経済問題に取り組んだ田中内閣だったものの、発足当初の70%という支持率をピークとして、次第に国民の支持を失いつつありました。
時代は中東戦争に端を発したオイルショックの時期でもあり、高度経済成長も緩やかになりつつあったのです。
田中内閣の致命傷となったのが金脈問題でした。
田中のファミリー企業が土地を買収した際、その土地が建設省の工事で数百倍の地価へ跳ね上がりました。
これは明らかに不当な利益だとして世論からの猛バッシングを受け、ついに田中は退陣を余儀なくされたのです。
首相在職は2年半というものでした。
昭和51年、ロッキード事件が発生。田中はロッキード社から利益供与を受けたとして逮捕され、自民党を離党。
とはいえ地元新潟での人気は根強く、その後も選挙区におけるトップ当選を繰り返しています。
昭和58年に田中の実刑判決が確定。
第37回総選挙で自民党は大敗を喫します。
中曽根首相はついに「田中角栄との決別」を決意し、田中が持つ政治的影響を一切排除することを宣言しました。
昭和60年、田中は脳梗塞を発症、一切の政治活動が不可能となり、平成2年に政界を引退したことに伴い、田中の後援会である越山会(えつざんかい)も解散、翌年、長女の田中眞紀子が新潟3区から出馬し、無所属ながら見事当選。
12月16日、田中は肺炎を患い、入院、そのまま帰らぬ人となりました。享年75。その出世ぶりや存在感は、「今太閤」や「目白の闇将軍」などと呼ばれ、昭和の傑物として語り継がれています。
とここまでが田中角栄氏の紹介でした。
ポイント
- 田中角栄は日本の実業家、政治家、建築士である。
- 衆議院議員郵政大臣 内閣総理大臣等を歴任し、その出世ぶりや存在感から「今太闇」や「目白の闇将軍」と呼ばれ、昭和の傑物として語り継がれている。
では次の項目です。
2.田中角栄氏を観相学で観る
項目①は実はかなり削ったのですが、それでも長くなりました。さすがは田中角栄氏です。
この項目ではそんな彼を観相学で観させて頂きます。
観相学で観る前の注意点
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。僕は田中角栄氏に会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。
それゆえ、普段私が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度くらいに思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。
また彼は元総理大臣や、逮捕歴等もありますが、そのような事実は抜きにあくまでもフラットな状態で先入観が入らないように彼を観ていく事に出来るだけ努めます。
ではこの2枚から観ていきましょうかね。
実は僕もガッツリ世代ではないので、名前や顔のみ知ってるくらいで、今回、彼の経歴を読むまではほぼ知らない人でした。
ラーメンズもコントの中で物まねしていましたが、そのイメージしかないです(笑)
が、改めてこうやってまじまじと顔を観ると我々、面相読む人間からするとかなりわかりやすい、というか占断が分かれないタイプの顔です。
顔の輪郭・形の診断
実はこの田中角栄氏、顔の輪郭、形は最高に良いのです。
若い白黒写真の方を観るとよくわかりますが、面長で長方形ですね。男性では素晴らしいとされる顔型です。
額の診断
そして目立つのはやはり額の広さでしょう。
決して剥げているわけではなく、若い時の写真を観ても広いですからね。
どの相書にも書かれているであろう、額がここまで広いのは頭脳明晰、政治家向きで大物になるという嘘かと言わんばかりピッタリ当てはまっていますね。
かつ、まっすぐにうねりのない額のしわ、額紋というのですが、これが吉相ですね。
眉の診断
眉のあいだにある紋は非常に疑い深い人物で読みます。
心の奥底では相手を信用していないと読むのがポピュラーな読みです。
眉は吉相で人や周囲に恵まれる、なだらかなアーチを描いている眉です。
鼻の診断
鼻は誰が観てもわかるどっしりとした出世と金が約束された鼻であり、
目の診断
目はまぶたの腫れからの目の下がりで、痒い所に手が届くようなサポートが出来る人物です。
頬骨・耳・口の診断
頬骨こと観骨も良し、耳は内輪が少し出ているので、非常にエネルギッシュなタイプであり、口はしぶとさを意味していますので、
田中角栄を面相のみで観る
この田中角栄氏を面相のみで判断するならば、非常に頭が切れてボスタイプで、人が寄ってくるが心底では自分以外は絶対に信用はしないが、それを見切った上、相手をうまくコントロールできて、自分の味方にちゃんと付けれる優れた人物と占断できるでしょう。
かなり面相としては観やすくわかりやすい部類の人。
まったく人相を観れない人でもボスっぽいと感じるのではないでしょうか?
ポイント
- 面相としては観やすくてわかりやすい部類の人物。
- 頭がキレてボスタイプ。
- 人が寄ってくるが自分以外は絶対に信用せず、それを見切った上で相手を上手くコントロールでき自分の味方にできる。
では最後の項目です。
3.田中角栄氏から何を学ぶか
田中角栄氏は今回の記事を作るにあたり、少しネットで調べましたが、人心掌握術に非常に長けた人物でした。何しろ、頭が良い。
そして自分のパフォーマンス・ポーズ・プロデュースがすごくうまい人だなと感じました。
皆が皆、彼のようにうまく出来る訳ではありません。
頭が抜けていいですので、「天才」と言われるのがよく理解できました。
しかし彼の名言には多く僕らの人生に役立てるものがありました。
- 「人の喜び事はとくに励ましてやる必要はない、本人が幸せなんだから。むしろ苦境、悲しみのさなかにあるとき、力になってやるべき」
- 「第一は、できるだけ敵をへらしていくこと。世の中は、嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。第二は、自分に少しでも好意をもった広い中間層を握ること。第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」
などは確かにそうだよなぁと感心させられます。善か悪かの二元論は今日はおいておきましょう。
一つだけ言えるのは今後日本に、田中角栄氏ほど魅力的な政治家は現れないだろうなぁと本日の記事を作りながら、悲しみがこみ上げました。
ポイント
- 彼の残した名言から人生について学ぼう!