美空ひばり

動画でも解説しております

はじめに

今日は偉人観相学のコーナーなんですが、今日観る方は僕が一切、元々興味がない、かつ時代的にもまったく合わないので、ほぼほぼ情報を知りません。

美空ひばりむしろ息子さんの方をマネーの虎で観ることの方がはるかにおおかったので、ご本人にまったく馴染みがない「美空ひばり」さんです。

読者さまには年配の女性の方が多いせいか、ぽつぽつとリクエストが来ていました。偉人観相学、だいたい過去の男性。政治家、経営者などに偏りがちですので、ここら辺で一発、過去の女性を占断してみようという形になりました。
お化粧・メイク女性は男性と違ってメイクしているので、少し読み取りが下がりますが、まったく本人を知らないというのはフラットに読み取りができる分プラスですので、ちょうど相殺されていいですね。

本日も本人がどんな人物なのか、という解説からしていきますので、彼女の功績などはすべてわかっているという方は観相学の項目まで記事をスキップさせてください。

さて、では「昭和の歌姫」こと、美空ひばりさんを解説からしていきます。僕はまったく邦楽を聞かないので、どういった歌を歌われていたか等も知りません。物まね番組で本人以外の女性が歌っているのを観てたくらいですね。

男の星座あとは僕のバイブルでもある漫画「男の星座」で力道山のパーティーに来ている登場人物でしかイメージがありません。本当にそんな人物なのでしょうか?では本日の項目です。

  1. 美空ひばりさんは何をした方なのか?
  2. 美空ひばりさんを観相学で観る
  3. 美空ひばりさんから何を学ぶか

の三項目でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず、

1.美空ひばりさんは何をした方なのか?

美空ひばり美空ひばりこと、本名・加藤和枝は1937年5月29日、横浜市磯子区滝頭にて父親の増吉と母親の喜美枝との間に誕生しました。和枝以外にも、弟や妹たちが後々誕生します。

和枝が3歳になる頃には、小倉百人一首をほとんど暗記するまでに至るほどの才能を見せつけます。

歌う女の子時代は日本が第二次世界大戦の真っただ中に突入しており、父親の増吉は1943年に横須賀海兵団に入隊しました。父を送り出すときに和枝は「九段の母」を歌って送り出しました。 この歌を歌ったことで、和枝の人生が大きく変わっていくこととなりました。母親の喜美枝が和枝の歌に将来性を感じとり、慰問活動を通して、彼女が歌う「良さ」を広めていく活動を始めました。

杉田劇場和枝は1944年に滝頭国民学校(後の滝頭小学校)に入学します。それから1年後の1945年、日本は終戦を迎え敗北しました。父・増吉はなんとか生還し、「ミソラ楽団」を結成しました。12月に和枝は、芸名「美空和枝」として杉田劇場(のちのアテネ劇場)で初舞台を踏みます。美空ひばりの「美空」の原点は、ココにありました。

そこから1年後の1946年には、数々の興行をこなし、12月にはNHKの「のど自慢素人音楽祭」に出場するまでにこぎつけました。この時の美空ひばりはまだ9歳でした。

のど自慢で何故か鐘が鳴らなかったひばり

NHKのど自慢かの名曲「悲しき竹笛」を歌ったところ、なんと鐘が1つも鳴りませんでした。この衝撃的な出来事はNHKのど自慢において後にも先にもありません。 現在ののど自慢では、どんなに歌が下手でも最低でも鐘を1つは鳴らすのが礼儀です。
のど自慢の鐘鐘が1つも鳴らなかった理由は諸説ありますが、審査員が「子どもが大人の歌を歌うのはよくない」と思ったことや「子どもらしい歌唱力ではない」など当時の歌の概念が引き起こした悲劇と言わざるを得ない悔しい出来事でした。都市伝説的エピソードでは、「あまりの歌唱力に鐘を鳴らせなかった」ともありませんが、どれが事実なのかは今となってはわかりません。

地方巡業へ同行と交通事故

漫談の井口静波(せいは)・音丸夫婦衝撃的な出来事から時間は経過し、1947年に杉田劇場で漫談の井口静波(せいは)・音丸夫婦とともに初めて興行をしました。この出会いをきっかけに、和枝は井口夫妻とともに地方巡業へ同行することとなったわけです。

入院四国巡業の途中、高知県で和枝は不運にも交通事故に巻き込まれてしまいます。打ちどころが悪く即死状態の人もいた中で、バス後方に座っていた和枝は、かろうじて命は助かったものの、重傷を負ってしまいました。高知県内の病院で約2週間の治療を経た後、横浜に帰っていきました。

後の実況見分で、事故の原因はバスの運転手の前方不注意によるものとされ、バスのバンパーが桜の木にうまくひっかかってくれたことにより、バスの中の乗客乗員が全員死亡する最悪の事態は避けられたという1つの見解を示したそうです。仮に、バスのバンパーが桜の木にひっかかることがなかったら、和枝は死んでいたかもしれません。

この事故により、父親の増吉が和枝の歌手活動を反対するようになり、和枝は歌手活動を強行したことで、家族関係がにわかに怪しくなっていきます。

伴淳三郎それでも和枝は歌手活動を続け、病み上がりではありますが10月に伴淳三郎が座長格の日劇小劇場「新風ショウ」に出演し、自分の持ち歌である「あんたとあたり」を歌いました。この時、芸名を美空ひばりと改名されます!つまり私たちが知っている「美空ひばり」の原点はこの10歳の時だったのです。

運命の出会い

川田晴久そして年が明け、1948年にひばりは運命の出会いを果たします。それは、川田晴久との出会いです。

川田はひばりの歌を聞いて、その才能に惚れこみ、自分の巡業に加えるようになりました。さらに1949年には日劇「ラブ・パレード」に出演して、東京ブギブギを歌い、東映映画「のど自慢狂時代」に映画の初出演まで果たしました。ひばりはこの時12歳で、戦後わずか5年も経たないのにも関わらず、子どもが映画に出演すること自体が当時としては異例なことでした。

美空ひばりこれを皮切りに、今度は松竹の「踊る竜宮城」という映画に出演し、そこで主題歌「河童ブギウギ」を披露しました。この主題歌は美空ひばりの事実上のデビュー曲として知れ渡りました。

悲しき口笛また、9月には同じく松竹映画「悲しき口笛」に出演し、その映画のタイトルと同じ曲が9月10日に発売され大ヒットしました。このことにより、美空ひばりの名は全国に轟き、10月には芸能事務所・日本コロムビアと専属契約を結ぶまでに至りました。この年がひばりの今後における芸能人生の基礎となりました。

日本コロムビアちなみに日本コロンビアは、戦後の芸能事務所の中で古参の部類に入り、最近では創立110周年を記念したイベントを開くほど由緒ある事務所です。

1950年代以降、ひばりは更なる活躍をすることとなりました。忙しいひばりでしたが、1950年に滝頭小学校を卒業し、その年の4月には精華学園中学に入学します。先にひばりの最終学歴について紹介すると、精華学園高等部を卒業したことから、高卒となります。

川田と興行する美空ひばり川田とともにアメリカに渡って講演を行い、その傍らで数々の映画に出演し、徐々に人気を集めていきました。

ひばりのマドロスさんそして1954年、ひばりは「ひばりのマドロスさん」というシングル曲でNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。今とは価値観が異なるかもしれませんが、当時はNHK紅白歌合戦に出場することは、人気歌手の仲間入りを果たす1つのサインとなっていました。美空ひばり17歳の時でした。

また1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画「ジャンケン娘」に出演したことで、「三人娘」と呼ばれ不動の人気を獲得するに至りました。ひばりはこの二人と親交を深めと言われています。

婚約解消と塩酸事件

しかし1956年からひばりにとって正念場と言える事態が待ち受けていました。

小野満と美空ひばりジャズバンドをしている音楽家の小野満と婚約しましたが、結婚条件として付きつけたのが「結婚後には歌手を引退する」という内容でした。これはひばりにとって受け入れられるものではありませんでした。昭和の時代によくありましたが、「男は仕事、女は家庭」に従事するという凝り固まった考えが、彼にはあったのでしょう。 ほどなくして、婚約は解消されました。

この年に大阪劇場正月公演の際、入場時に混乱が生じたことにより、15歳のファンの少女が1人死亡するという惨事に見舞われてしまいました。

その翌年の1957年、ひばりにとって更に試練の年となります。
塩酸をかけられた美空ひばり1月の浅草国際公演で、ひばりと同い年の19歳の少女に塩酸をかけられてしまう、戦後では異例の事件が発生します。動機について当時の報道のよるところでは、「嫉妬」が主な原因とされています。本当の動機は本人しか知りえませんが、「美しい顔を一度だけでも醜い顔にしてみたい」という説が有力な犯行動機だったそうです。
事件の新聞記事この事件をきっかけにひばりはしばらく仕事を休業し、同じ悲劇が起こらないようにボディーガードをつけて行動するようになりました。この事件は、芸能史に今でも語り継がれるほど有名です。

師匠の死

川田晴久そして6月には、唯一「師匠」と慕っていた川田晴久が亡くなります。まだ20歳のひばりにとって精神面で依存していた部分がないとは言い切れず、塩酸事件以上のショックを受けたと言われています。
長崎の蝶々さんそれでもひばりは歌手活動を再開し、この年の暮れには3年ぶり2回目となるNHK紅白歌合戦出場「長崎の蝶々さん」を歌い、健在ぶりをアピールします。ただこの頃になると、ひばりは以前から面識があった暴力団の三代目山口組・田岡一雄組長を頼るようになります。かつての神戸の裏社会を事実上取り仕切っていた人物で、のちに芸能関係の会社を立ち上げ、ひばりを支援するようになります。

令和の時代では暴力団関係者とつるんでいると、芸能界追放相当の処分を受けてしまいます。

離婚と家族のトラブル

美空ひばりと小林旭ひばりが結婚した相手が小林旭です。1962年5月に結婚しました。 実はこの結婚、小林が望んだものではなく、ひばりが田岡を介して申し込んだ事実上の「強制結婚」なのです。 その証拠に、二人はわずか1年7ヶ月後に離婚を発表しました。

また、父親が肺結核で亡くなり、さらにひばりにとって不幸が立て続けに起こってしまいます。美空ひばりの弟ひばりの弟である小野透が賭博幇助容疑で逮捕されます。身内の逮捕で、ひばりに対するバッシングも少なからずありました。

逆境に負けず芸能活動に励む

ひばりはリサイタルや劇場公演を続けるも、東映との専属契約が打ち切りになりますが、ひばりは逆境にもめげず仕事に励み、1964年の年末、NHK紅白歌合戦で「柔」を歌い、この曲がのちに大ヒットし180万枚突破する売り上げとなりました。

その後のひばりは、新宿コマ劇場にて55日間で100回ステージのべ30万人動員という前人未到の記録を作り話題となりました。

また、日本から地球の反対側にあたるブラジルに出向きサンパウロ公演を成功させました。

紅白歌合戦の美空ひばりそして1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会を務めつつ、最後の歌う「大トリ」を務めたのです。これは紅白歌合戦史上初の出来事で、現在でも女性に限っては美空ひばり以外兼任した例がないほど、大きな功績として残る偉業として語り継がれています。

芸能生命を脅かす出来事

それから3年後の1973年、ひばりの芸能生命を脅かす出来事が起こります。

ヤクザ世間では暴力団追放運動が盛んとなり、暴力団として有名な山口組も例外ではありませんでした。田岡組長と懇意にしていたひばりにも影響が及び、一時期仕事が激減します。特に弟のかとう哲也が山口組に出入りしていたと報道されたことで、大きなバッシングへとつながったのです。そのせいでこの年の紅白出場を辞退せざるを得ませんでした。

この頃から、ひばりの歌手活動は粛々としたものとなり、大きなヒットソングも生まれず、NHKの紅白歌合戦に出場することもなくなりました。

美空ひばりと息子ひばりは、1977年に養子として子どもを引き取り、和也と名づけ育てました。(後のひばりプロダクション代表となる加藤和也)

相次ぐ身近な人の死1981年にはひばりを影で支えていた田岡組長とひばりを献身的に支えてくれた母親の喜美枝が亡くなります。

ひばりは田岡組長の葬儀に顔を出したことで、暴力団関係を疑われ強烈なバッシングを受け、翌年には「三人娘」時代から親交のあった江利チエミが急死したことで、ひばりはショックを受けました。

晩年の美空ひばり

やがてひばり自身にも病魔が襲いかかってきました。ひばりの病気は現在でも国の難病に指定されている疾患です。具体的な発症原因は不明なままですが、大量の飲酒が原因の1つとなっていることを日本の難病研究班の調査によって判明しています。

ひばりは肉親を亡くした頃から、大量の飲酒生活に明け暮れていたそうで、この生活習慣がこの病気を誘発したとされています。

美空ひばりの遺影1989年6月24日、ひばりはこの世を去りました。

川の流れのようにまた、「川の流れのように」は、1989年1月11日に発売された美空ひばり生涯最後のシングルとなりました。その関係から美空ひばりの代表曲に名を連ねます。

とここまでが美空ひばりさんの人生でした。

ポイント

  • 9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と調われて以後、歌謡曲映画·舞台などで目覚ましい活躍した昭和歌謡界の女王。

では次の項目です。

2.美空ひばりさんを観相学で観る

いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。

観相学で観る前の注意点

僕は美空ひばりさんに会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。

注意事項:画像のみで観ると確度は下がります。ご了承ください。それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。

美空ひばり有名人ですので、写真がいっぱいあっていいですが、出来るだけ普段の状態を観たいんです。僕が一番、観れると思ったのが、この深緑の服を着てらっしゃる写真ですかね。あまり若過ぎるのは占断しにくいので。

ひと目見たときの印象

僕のパッと見のイメージで言うならば初めて顔をマジマジと観たんですが、大成功者であるのに、顔に苦労が観られるなぁと感じました。一瞬の見た目のインプレッションですが。

子供の頃から活躍されていたくらいの事は知っていたので、エスカレーター方式で何事もなくずっと売れてきてるから、苦労など見えない顔を想像していたんですが、それがちょっと僕の想像と違ってました。

顔の形の診断

顔の形顔の形から観ていきましょうか。芸能でBIGになる人は十字面相で言えば円の人、要するに真ん丸の顔が多いとされているんですが、ひばりさんは違いますね。

男性ならパーフェクトの顔の形ですが、女性ですので、吉凶併せ持つ、富や名声は得られるが、家庭運はよくないと診断するんですが、合っていますかね?

額・生え際の診断

額額は素人でもわかるくらいの吉相ですよね。子供の時からそうです。刀巴心青では女性はこの額の場合、性欲が強いという読みがあるんですが、刀巴心青はだいぶオカルト要素が強い占断手法なので、あくまでもお遊び程度に覚えててください。女性との飲み会時のネタくらいにするのが良しです(笑)

生え際はまっすぐとなだらかの間くらい。日々精進できるタイプですが、頑固者であると読みます。要するにあまり合理的にモノを考えないド根性型ですね。僕は好きなタイプです。額の紋もありません。

眉間・眉の診断

眉眉間に紋もなし。眉は整えてるでしょうが、出来るだけ多くの写真を観てこれだろうと思うのでいくと、綺麗に整いながら、下がっていく、女性でより吉相とされる眉で、芸術系に秀でると言われます。

目の診断

目これはちょっと面相をよく見ている人間しかわかりにくいかもしれませんが、目の周りの配置具合が絶妙です。各々のパーツではなく、距離感が素晴らしいです。それと目の形、眼球が吉相で、女性ではありますが包容力・度胸などがあると占断できます。

中停が素晴らしい美空ひばりさんが特に良いと鑑定できるのは、面相は顔を上中下の1/3にわけるのですが、真ん中の中停が非常に素晴らしいです。なお、この三停ですが、年代の読み取りはフルマックスオカルトですので気にしないでください。

まぁ後付けではなく、後出しじゃんけんではなく、そりゃ昭和のトップと言っても決して言い過ぎではない女性有名人ですので、そりゃそうなるわな、と自分でも思います。

鼻の診断

鼻鼻の部分も小鼻、金甲と面相では呼ぶんですが、いいですね。財運やお金良しと観ます。

頬骨の診断

頬骨頬骨、いわゆる観骨もビジネス的には良しですが、女性では家庭運が下がるとも言われています。この部分は顔の形と同じ見方ですね。

口・人中・顎の診断

口若い方の写真で観ると口も人から愛される事が大好きな人で、愛されたいがゆえに歌を頑張れたのかもしれません。人中と顎の部分は特に吉相というわけでもありません。

美空ひばり氏の面相のみの診断

美空ひばり面相のみで観るとビジネス・仕事面・才能面でいう事はありませんが、プライベートや家庭がどうだったのか・・・と疑問に思います。スターや天才ならではの悩みもあったのでは、と僕は感じます。

どの部分で僕がそう観えているのが言語化出来ないのですが、成功者はわかるのに、どこか寂しさや苦悩が見え隠れします。僕の思い過ごしや、診断ミスなのかもしれません。

ポイント

  • 成功者である事はわかるのにどこか寂しさや苦悩が見え隠れする面相。
  • ビジネス仕事面·才能面で言うことなしの面相だが、スターや天才ならではの悩みもあったのかも。

というわけで、最後の項目です。

3.美空ひばりさんから何を学ぶか

今回の記事で美空ひばりさんを調べていて、彼女が残したこんな言葉を見つけました。

美空ひばり
身を屈して、分を守り、天の時を待つ

任天堂の山内社長も語ってましたが、成功者がよく言うのは、自分が出来る事をやりつつ、運がやってくるのを待つ。というマインドです。決してオカルトに頼らず、自分の力を信じて、チャンスが来るまで耐えるという事。成功者である人はやはり共通している部分があります。

僕らも怪しいグッズや占いに頼らず、自分が出来る事を地道にやり続けましょう。

ポイント

  • 「自分が出来る事をやりつつ 運がやってくるのを待つ」というマインドが大事。
  • 占いなどに頼らず自分が出来る事を地道にやり続けましょう!
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