動画でも解説しております
はじめに
今日は僕も名前や活躍などは存じておりますが、現役時代は見た事がありません。もちろん懐かしのVTRなどではちらっと見た事はありますが、僕が子供の時は彼はもう監督で、やたらとお笑い芸人さんに物まねの餌食にされておりました。そう、ミスターこと長嶋茂雄さんです。
エピソードや逸話が沢山あって、写真や動画も今まで観相学で占断してきた人の中で一番素材が多いのではないでしょうか?その点は嬉しいですね。
最近は一切野球を観なくなりましたが、子供の頃は結構野球ファンで、ヤクルトスワローズが好きでした。彼の子供の長嶋一茂さんが、ヤクルトに居て応援していました。子供ながらに偉大過ぎる父親持つと大変なんだぁと感じていました。今日は彼がどれだけ偉大だったのかの話もしていきます。
野球に興味ない方、彼の活躍を十分知っている方は観相学の記事までスキップしてくださいね。
僕が、物まね芸人さんのモノマネみてふわっと覚えてるイメージでは、優しそうでちょっと天然という雰囲気があるんですが、それが合っているのかどうか。その辺が観相学で観れるといいですね。それでは本日の項目です。
- 長嶋茂雄さんは何をした方なのか?
- 長嶋茂雄さんを観相学で観る
- 長嶋茂雄さんから何を学ぶか?
の三本構成でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず、
1.長嶋茂雄さんは何をした方なのか?
僕も世代が違う為にハッキリとした事はわからないので、この項目ではどんな偉業を成し遂げた方なのかを解説していきましょう。
長嶋茂雄さんは、「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」と称えられ、選手・監督時代も含めて、長年にわたって日本プロ野球界に貢献してきました。
生い立ち
茂雄が生まれたのは昭和11年(1936年)のこと。出生地は現在の佐倉市にあたる千葉県印旛郡臼井町’いんばぐんうすいまち)です。ミスター兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子だった茂雄ですが、町立臼井国民学校に通っていた頃、クラスでは一番背が低かったらしく、朝礼では列の最後列にくっついて並んでいました。
しかし運動神経はかなり良かったようで、恐ろしくすばしっこく、徒競走などはいつもトップでゴールインしたといいます。やがて幼少の茂雄は阪神タイガースの藤村富美男のプレーを見て、野球を意識するようになりました。意外なことに当時はタイガースファンだったそうです。
終戦の年、小学4年で兄の影響を受けて野球を始めますが、当時は他の家庭の子と同じように野球用具を揃えるだけの余裕がありません。そこで母がお手製ボールをよく作ってくれました。まずビー玉を芯にして、干した里イモの茎を細かくほぐして巻きつけ、仕上げに固い布で縫い付けます。こうして完成したボールで練習に興じる毎日でした。
戦前から千葉県は野球が盛んな土地でしたが、終戦後は臼井町にある青年団の間にも草野球チームがいくつも作られていたそうです。
茂雄の兄・武彦もハヤテ・クラブという青年団チームに入ってレフトを守っていました。兄と一緒に球拾い要員としてグラウンドにやってくるうち、茂雄はすっかり野球熱に取りつかれます。球拾いの合間には、青竹を切った手製のバットで見よう見真似のスイングをしていたそうで、その懸命さを見かねた父は、茂雄のために千葉市まで行ってキャンバス地のグラブを買ってくるほどでした。
そうするうちに茂雄はめきめきと実力を身に付け、小学生ながらショートのポジションを確保するほどになります。
やがて昭和23年(1948年)、中学校に進んだ茂雄は野球部へ入部。野球熱が高まりつつあった世情(せじょう)を反映して、入部希望者が100人を超えたものの、茂雄はそのすばしっこさを生かして1年生にしてレギュラーに選ばれました。そしてショートを守る1番打者として活躍します。この時期にかなり身長が伸びたようで、中学校を卒業するころには、チビだった面影はどこにもありませんでした。
昭和26年(1951年)、茂雄は通称「佐倉一高」こと佐倉第一高校へ入学します。2年の時から4番バッターを担うものの、当時の茂雄は無名そのものの存在でした。
しかし大宮球場で行なわれた対熊谷高戦でバックスクリーンに特大ホームランを放ち、野球関係者から大きな注目を集めます。
やがて富士製鉄室蘭野球部マネージャーの小野秀夫は茂雄の将来性を認め、立教大学への進学を勧めました。実はこの時、読売ジャイアンツからもオファーが来ていたそうですが、父の方針で断りを入れたそうです。立教大学のセレクションでは、のちに南海ホークスの大エースとなる杉浦忠からヒットを放つなど3安打の固め打ちを成し遂げ、並み居るライバルを押しのけて見事に合格を果たしました。
さて、立教大学に進学した矢先に父が亡くなるという不幸に襲われます。経済的に困窮するという困難に見舞われますが、母が野菜売りの行商をして生計を支えていたそうです。
茂雄は2年生でレギュラーとなり、その年の秋には、.343で打率3位、ベストナインに選ばれました。また早稲田大学との試合で第1号ホームランを放っています。
ちなみに当時の東京六大学は、プロ野球よりもマスコミの扱いが大きく、ベストナインに選出されたということは一躍スターダムに躍り出たことを意味していました。また同年12月には六大学選抜に選ばれ、フィリピンのマニラで行われたアジア野球選手権に出場しています。
やがて4年となった昭和32年(1957年)秋、当時の六大学リーグ通算新記録となる8本目のホームランを最終戦で放ちました。こうしてプロ球団が注目していた茂雄ですが、実はジャイアンツではなく南海ホークスが熱心に誘っていたようです。
ホークス監督の鶴岡一人(かずと)は、日本シリーズのたびにジャイアンツに煮え湯を飲まされており、神宮のヒーローである杉浦忠と茂雄をセットで入団させることにより、積年の恨みを晴らそうと考えていました。立教大の先輩だった大沢啓二からの誘いもあり、茂雄の気持ちも3年まではホークス入りで固まっていましたが、最終的にジャイアンツを選択します。この時、世話になった大沢に対して土下座して謝罪したとも。
茂雄がジャイアンツを選んだ理由。それは契約金が高かったこともありますが、苦労を掛けてきた母が「せめて在京球団に」という一言があったからだとされています。
在京球団とは
読売ジャイアンツとの契約
そして読売ジャイアンツと契約した茂雄の背番号は「3」に決まり、翌年のシーズンを迎えます。
オープン戦で7ホーマーを放つなど好調を維持した茂雄ですが、その初打席でいきなりプロの洗礼を浴びました。対するは国鉄スワローズのエース金田正一(まさいち)です。茂雄は対戦前に
と宣言しています。その一言が金田の闘志に火を付けたのかも知れません。結果は4打席連続三振、わずか1球がバットにかすっただけで、まともに当てることすらできませんでした。
4月が終わった時点で打率は.238。さすがの茂雄にもプロの洗礼があったのかと思わせますが、そこから猛烈な勢いで打ちまくります。5月の月間打率は.397となり、通算打率も3割に乗せました。そして圧巻は6月22日の大洋ホエールズ戦です。1試合で3ホームランを放ち、しかもすべてが場外弾でした。
その後もホームランを量産し、9月6日の阪神タイガース戦で放った2発のホームランにより、昭和28年(1953年)に豊田泰光(とよだやすみつ)が打ち立てた新人最多ホームラン記録27本に並びました。最終的には打率.305、29本塁打、92打点、37盗塁で優勝に貢献し、ルーキーながらホームラン王と打点王を手にしたわけです。もちろん新人王とベストナインにも輝きました。
天覧試合でのホームラン
翌年のシーズンでは、長嶋茂雄を語る上では外せない出来事がありました。
昭和34年(1959年)6月25日、昭和天皇の御前で開催されたジャイアンツ対タイガースの天覧試合がそれです。まだ高卒ルーキーだった王貞治が同点ツーランをスタンドに叩きこんで4-4となり、そして迎えた最終回、茂雄はサヨナラホームランを放ちました。天皇・皇后両陛下の観戦は9時15分まで。というお達しが出ていましたが、試合が決した時間はなんと9時12分でした。天皇も大いに満足されたといいます。この年、茂雄は2位以下を大きく引き離して初めての首位打者を獲得しました。
野球人気が沸騰
こうして押しも押されぬジャイアンツの中心打者となった茂雄ですが、昭和37年(1962年)から一本足打法を開眼した王が主力に加わり、チーム自体の戦力も分厚さを増していきます。
そして昭和40年(1965年)から始まるV9時代を迎えました。茂雄と王の並びはON砲と呼ばれ、ジャイアンツの強さを表す形容詞となります。またホームラン王が王、首位打者が茂雄というシーズンも珍しくありませんでした。高度成長期にあった日本において、野球人気の沸騰ぶりは、まさにジャイアンツの強さがあったからに他なりません。
守備の名手となる茂雄
「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語はこの頃のものですし、王の豪快なホームランだけでなく、茂雄の華麗なプレーも人々を魅了しました。
痛烈な三遊間のゴロを横っ飛びでキャッチし、目にも止まらぬ速さで一塁へ送球する強肩ぶりは野球少年たちを熱狂させました。またショートゴロを横から横取りしつつ、華麗な送球ステップを踏むプレーの華やかさに人々は魅了されたといいます。プレー一つ取っても茂雄流の美学がありました。おそらくゴロを捌くことが内野手の華だと考えていたのでしょう。
V9時代を迎えていたジャイアンツですが、好調なチーム状況とは裏腹に、茂雄の打撃成績は徐々に下降線をたどっていました。
現役引退
キャリアの末期に選手兼任コーチとなっていましたが、昭和47年(1972年)に27ホーマー、92打点を稼ぐものの、打率はベストテン圏外へと低迷。さらに翌年には骨折などが重なって打率は.269にまで低迷します。
昭和49年(1974年)を迎えると、その成績は打率.244、15ホーマーとなり、ジャイアンツが優勝を逃したこともあって、ついに茂雄は現役引退を決意しました。
そして同年10月13日、引退セレモニーにおいて
というスピーチを残し、記録にも記憶にも残る選手としてのキャリアを終えました。
まだ数年はやれるだけの体力はあったものの、やはり無様な成績は残せないという茂雄なりの美学があったのかも知れません。
監督業への挑戦
アスリートとしてのキャリアは終えたものの、茂雄は次なる挑戦へ向かいます。それが愛するジャイアンツを再び常勝軍団に育てることでした。
同年11月21日、改めて新監督に就任した茂雄は「クリーン・ベースボール」を掲げて、ジャイアンツらしい力で圧倒する野球を目指します。ところが新人監督にとって険しい道のりが待ち受けていました。
監督初年度は惨めな最下位に終わり、強かったジャイアンツの面影はなくなります。茂雄たちベテランたちの引退が重なったこともありますが、茂雄が監督としてのビジョンを明確にできなかったことが最大の敗因でした。
そこでシーズン終了後から、茂雄は大きなチーム改革に打って出ます。日本ハムファイターズから「安打製造機」と呼ばれた張本勲を獲得し、太平洋クラブ・ライオンズから加藤初(かとうはじめ)がやって来ます。
さらに守備面でも大胆なコンバートを実行し、戦う集団として戦力を充実させました。その結果、前年の最下位とは一転してリーグ優勝を果たし、見事に雪辱を遂げました。
それでも長嶋巨人の進撃は止まりません。
翌年には2位に15ゲーム差を付けて連覇。日本シリーズは惜しくも阪急ブレーブスに敗れるものの、ジャイアンツは球界の盟主たる地位を確固たるものにしました。ところが打倒ジャイアンツを目指すセ・リーグ各球団も負けてはいません。
昭和53年(1978年)のシーズンではヤクルトスワローズに優勝をさらわれ、翌年には5位に甘んじました。茂雄のトップダウン体制にあったジャイアンツは知らず知らずのうちに慢心し、その地位に甘んじていたわけです。
そこで茂雄はV9時代を知らない若手を中心としたチーム作りに邁進します。
のちにジャイアンツの主力となる篠塚・西本・角・山倉・中畑といった面々を「地獄の伊東キャンプ」へ参加させ、戦うための覚悟を身に付けさせました。しかし、すぐに若い芽が出るわけではありません。
昭和55年(1980年)のシーズンも低迷したジャイアンツは批判に晒され、茂雄も監督を解任されてしまいました。
退団後の茂雄はスポーツ番組のみならずバラエティ番組への出演もこなし、外から野球を見る目を養ったといいます。
また他球団からも監督就任を打診されますが、いずれも断りました。これもジャイアンツを愛するがゆえでした。
第二次長嶋監督時代が到来
そして平成4年(1992年)、満を持して第二次長嶋監督時代が到来します。
翌年のシーズンは3位に終わるものの、翌平成6年(1994年)には中日ドラゴンズとの10・8決戦を制し、見事にリーグ制覇を成し遂げます。また日本シリーズでも西武ライオンズを破って、監督として初めて日本一となりました。
平成8年(1996年)になると、広島カープに最大11.5ゲーム差を付けられながらリーグ優勝を果たし、「メークドラマ」と呼ばれた逆転劇を果たします。
そして茂雄が最後に日本一となったのが平成12年(2000年)です。かつての同僚王貞治が率いる福岡ダイエーホークスと戦い、4勝2敗で日本シリーズを制しました。
監督を勇退
翌年、監督を勇退した茂雄は終身名誉監督となり、選手そして監督としての実質的なキャリアを終えたのです。
平成15年(2003年)に脳梗塞で倒れ入院。手足に麻痺は残るものの、その後もスポーツ振興や野球指導をおこなって日本球界の発展のために尽くしています。
また平成25年(2013年)には松井秀喜とともに国民栄誉賞を受賞しました。
日本の発展とともに歩んできた茂雄の輝かしい経歴は、今も色褪せることはありません。
かなり長くなりましたが、すごい偉業でした。
ポイント
- 「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」と称えられ、天覧試合でのサヨナラホームランや監督時代にリーグ優勝日本一を達成した。
- 選手・監督時代も含めて長年にわたって日本プロ野球界に貢献した。
- 平成25年松井秀喜さんとともに国民栄管賞を受賞した。
それでは次の項目です。
2.長嶋茂雄さんを観相学で観る
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。
観相学で観る前の注意点
僕は長嶋茂雄さんに会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。
それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。
選手時代と監督時代の写真を2枚用意しましたが、わかりやすい善相ではありますね。本当に悪人は悪人の相になっていき、まったく偉人観相学で紹介する人間とは誰が観ても一目でわかるくらい違いますよね。
若い時の帽子をかぶっていない写真を見つけたかったんですがなかったですが、予想していきましょう。
顔型の占断
顔型は最初から幸福が約束されている顔ではなく、自分の根性や意志力、頑張りなどで結果を出すタイプでございます。
観骨やあごの占断
観骨やあごの部分などは自分自身の強さがわかっており、一つの道をひたすらに突き進むタイプで、どんな業界でもトップやそれに近いレベルまで持っていく実力と、努力を兼ね揃えているとみるのが一番普通の読み取りでしょう。
それゆえ、家庭やパートナーなどは大変な時もありますが、奥さんがしっかりしていれば解決しますが、長嶋さん一家はどうだったんでしょうね。お金はもちろんあったので、その部分は困らなそうですが。同じ顔型でも家庭を顧みず、仕事や何かに打ち込む人が多いです。
額・生え際の占断
額や生え際はさすがに偉人観相学で出てくる方は統一していいですね。大きな額。出世が約束されていると言われている部分です。
眉の占断
そして長嶋茂雄さんはなんといっても眉毛が非常に特徴的でございます。この太く、眉毛の毛が立っている感じで非常に濃いのですが、これは大吉相でございます。財運などに恵まれるという占断ができますね。こういった濃い眉毛でもきちんと形を認識しましょう。形が綺麗でない場合は凶相に変わりますので、濃さだけでの判断は危険です。
田宅の占断
田宅は狭いですが、目の良さで打ち消しにできるパターンです。昔の相書にもよく書いてあります。田宅のみではなく、目と合わせて観よ。というモノです。
目の占断
目は非常によく一つの事に没入出来るタイプ、そして鋭さも持ち合わせている、目の周りのしわなどで優しそうにも見えますが、本来は野生動物のような目力があります。
良い方向に出れば問題ありませんが、こういった人間は恨みや自分がやられた事を忘れないので、執念深いとも言われています。野球はそんなに詳しくないのですが、金田投手にはリベンジ出来たのでしょうか?
鼻の占断
また鼻も形も大きさもいいですね。ボスタイプでお金がついてくると読みのがベストでしょう。
耳の占断
耳を観ると案外、現実主義者とも読めます。という事は天然はキャラなのか、天然とリアリストを合わせてもっているんでしょうか?
ほうれい線の占断
ほうれい線は口角に付かずに長いので仕事で大活躍できる人と言う読み方をするので、ここは合っているでしょう。吉相です。
口の占断
口もわかりやすく良いです。口を開けた時に見える歯の見え方もいいんです。
めちゃくちゃ口角が上がっているとそこはダメになるのですが、それもありませんね。人と仲良くなりやすい方などが多い口元の相でした。
面相のみで判断すると野球選手ではありますが、ビジネス・仕事で絶対成功するタイプ。
長嶋茂雄氏の面相のみでの占断
僕が物まね芸人さんやエピソードから知る限り、天然キャラと思っていたんですが、あまりそれは顔から見抜けないのですよね。
むしろ現実的できちんと計算や管理が出来るタイプなんですが、僕の読み取りが間違っているのかもしれません。
まぁ、細かい部分はバッチリ正解でなくても、絶対に成功する顔だなぁというのは確実に診て取れるレベルの吉相ではあります。
ポイント
- ビジネス仕事で絶対成功するタイプ。
- 現実的できちんと計算や管理が出来るタイプ。
- 絶対に成功する顔と占断できる吉相である。
それでは最後の項目です。
3.長嶋茂雄さんから何を学ぶか?
この度、この記事のために長嶋茂雄さんをネットで調べていると、
という名言を見つけました。
大天才、大スターというのはやはり努力から来るもんだなぁと改めて感じました。
特にスポーツでは「はじめの一歩」の鴨川会長の言う通り、成功してる人間は絶対に努力をしてるという事実です。それゆえ、僕らも努力して成功を勝ち得ましょう!
ポイント
- 長嶋茂雄さんの名言から成功している人間は絶対に努力をしているという事実を学び、成功を勝ち取りましょう!