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はじめに
今日は僕の大好きな人!ではありますが、ほぼ情報は皆無であります。
なぜ好きかというと僕が大好きなモノを作ってくれた人だからです。
本日取り上げる人物の名前は「安藤百福」さんです。彼が何を作ったかといいますと僕の大好きな「カップヌードル」です。
数えた事ないですけど、おそらく、生てきた中で1000個以上は食べてるでしょう。健康によくないと言われても知りません(笑)
今でこそ食べるペースは落ちましたが、昔は馬鹿程、毎日食していました。
ノーマル・カレー・シーフード、期間限定のラーメンまでかなり日清食品にはお世話になっております。今日はそのお礼もこめて偉人観相学で取り上げさせて頂きます。よく考えたら、僕の大好きなチキンラーメンも日清食品ですね。
無性にチキンラーメンが食べたくなる時があるんですが、その症状は僕だけでしょうか?ガッキーをCMに起用していたのも素晴らしいですね。
今日は
- 安藤百福氏がどのような人生を送ったのか
- インスタントラーメンはどうやって出来たのか?
から解説していきますので、
「そういうのは俺もうわかってんぞ!」という少年期の悟空のような方は観相学の項目まで記事を飛ばしてくださいね!
それでは本日の項目です。
- 安藤百福氏とは何者なのか?
- 安藤百福氏を観相学で観る!
- 安藤百福氏から何を学ぶか?
の三本構成でいきましょう!よろしくお願いいたします。ではまず、
1.安藤百福氏とは何者なのか?
僕ももちろん、インスタントラーメン作った人!くらいは知っていますが詳しい事はわからないので、一緒に勉強していきましょう。
安藤百福は1910年(明治43年)、日本統治時代の台湾で生まれました。
出生名は呉百福(ゴー・ペクホク)といい、日本からの移民ではなく、台湾本島人出身の両親を持っています。
生家は資産家だったものの、百福は幼い頃に両親を亡くしており、呉服店を営む祖父母のもとで、商売の現場を間近に見ながら育ちました。
幼い頃から計算が大好きで、足し算や掛け算などを瞬く間に習得したそうです。
やがて義務教育を終えた百福は、祖父母の呉服店を手伝ったのち、図書館の司書になるものの2年で辞めています。
父そして祖父から受け継いだ経営者としての血統でしょうか、独立心と事業意欲が旺盛だった百福が選んだのは繊維事業でした。
1932年(昭和7年)、父が遺した遺産で東洋莫大小(メリヤス)という会社を立ち上げ、日本から仕入れた製品を台湾で販売するという事業を立ち上げます。
メリヤスの需要増に伴って会社は好調に売り上げを伸ばし、百福の事業は大きな成功を収めました。
また日本内地にも進出し、大阪で日東商会を設立。
トウゴマからひまし油を採取し、その葉を繊維業者に販売する事業も新たに手掛けました。
その他にも幻灯機の製造や炭焼き事業、バラック住宅の製造や学校の設立など、さまざまな事業を手掛けます。百福は時代の流れをいち早くキャッチし、すぐに事業化できるほどの実行力と、失敗してもあきらめないバイタリティを持ち合わせていました。
こういったチャレンジ精神こそ、後年の大成功へ導く大きな原動力になったことは言うまでもありません。
そんな百福を動かした行動原理とは、
「世の中を明るくする仕事はないだろうか」
という信念でした。そうした社会奉仕の精神を持ちながら仕事に取り組んでいたのでしょう。
台湾出身者として謂れなき差別を受ける
とはいえ全てがうまく進んでいたわけでもありません。
当時の台湾出身者は3等市民扱いですから、謂れなき差別を受けることもありました。
軍需関係の仕事に携わっていた時、資材の横流しが発覚したため、警察に相談したといいます。
ところが憲兵によって逮捕され、「お前こそ犯人だ!」と嫌疑を受けてしまいました。
友人の弁明もあって釈放されますが、45日間にわたって厳しい尋問を受けたため、心身共に大きなダメージを負うことになりました。
戦後、食の大切さに目覚める
その後、回復した百福は激しくなる空襲を避けて兵庫県へ移り住み、やがて終戦を迎えます。
やがて疎開先から大阪へ戻った百福は泉大津で暮らし始めました。
しかし終戦直後の混乱期にあって人々の暮らしは困難を極め、栄養失調で行き倒れになる人が後を絶ちませんでした。
この悲惨な光景を見た百福は
と食べることの大切さを痛感したといいます。
そこで百福は食品事業に大きな関心を示しました。自宅の近くにあった工場跡地を払い下げてもらい、放置されていた鉄板を用いて製塩業を始めたのです。
インスタントラーメン開発に没頭するきっかけ
1948年(昭和23年)には、のちの日清食品となる中交総社を設立。
牛や豚の骨髄から蛋白質エキスを抽出することに成功します。
やがてビセイクルというペースト状の食品として完成させ、患者向けとして病院などで提供されました。
安藤はビセイクルをめぐって厚生省へ頻繁に出入りするうち、多くの人脈を得たといいます。やがてその人脈が大ヒット商品チキンラーメン開発の布石となります。
ちょうどこの頃、百福がのちにインスタントラーメン開発に没頭するきっかけとなった光景を目にします。
闇市を通りかかった百福は、とある長い行列に注目しました。それはたった1杯のラーメンを食べるために人々が並んでいる光景でした。
そこで百福は、日本人が麺好きであることを改めて実感するとともに、この行列に大きな需要が隠されていることを確信します。
当時、日本政府はアメリカの余剰小麦を使った食事を奨励していたのですが、そのほとんどはパンやビスケットとして消費されていました。
と百福は疑問に感じたそうです。
そこで厚生省栄養課長の有本邦太郎に相談したところ、「即席麺の研究をしてみては?」という意外な言葉が返ってきました。
百福は自伝の中でも「戦後すぐ、即席めんの研究を勧めてくれたのが有本さんだった」と回想しています。
とはいえ当時の麺類は零細企業の仕事という意味合いが強く、量産技術も流通ルートもありません。
また加熱していない「生」の状態だったため、長期保存には向かないというデメリットがありました。そこが大きな壁になったといいます。
大きな挫折
ビセイクルは広く世の中に知られていきましたが、またしても百福は大きな挫折を味わうことになりました。
GHQ(連合国最高司令部)から脱税の嫌疑を掛けられ、百福は巣鴨拘置所に収監されてしまいます。
実は事業のために若者を雇用していたのですが、彼らに奨学金を与えていました。
しかし奨学金を所得とみなされ、納税を怠ったということで納税義務違反に問われたといいます。
弁護団が処分取り消しの裁判を起こすものの、逆に訴えを引き下げたら釈放するという条件を突きつけられました。
このままではいつまで経っても拘置所から出られない。そう考えた百福は、理不尽な嫌疑を甘んじて受け入れ、ようやく釈放されました。
しかし百福が収監されている間に会社を清算しており、実業家としての経歴はまったくの振り出しに戻ってしまいました。
無一文になり、即席ラーメンの研究へ
失意の百福は、やがて大阪華(はな)銀という信用組合から懇願されて理事長となります。
しかし1957年(昭和32年)に信用組合が破綻し、今度こそ無一文になってしまいました。残ったのは大阪府池田市の借家だけという有様です。
しかし百福はプラスに考えました。
と。そして闇市で並んでいた人々の行列を思い出したといいます。
今こそ麺類好きな日本人のために、席で食べられる美味しいラーメンを開発するべきだと、自らを奮い立たせました。
さっそく百福は長年温めてきた「お湯さえあれば、すぐに食べられるラーメン」の開発を実行に移します。
自宅の裏庭に簡素な小屋を建てて自らの研究所としました。そして道具や材料も全て自分で探し集めます。
そして平均4時間という睡眠時間の中、1年もの時間を掛けて、1日の休みなく研究に没頭しました。百福はまさに死にものぐるいの日々を送ったといいます。
また百福は開発にあたって5つの目標を定めました。
5つの目標
- 美味しくて、飽きのこない味であること
- 家庭の台所に常備できる保存性があること
- 調理に手間が掛からないこと
- 誰でも買えるほど値段が安いこと
- 安心安全で衛生的なこと
試行錯誤の果てに発見したフライ製法
とはいえ目標を定めたものの、百福は麺作りについてはまったくの素人です。
山のような試作品を作っては捨てる日々が続き、心が折れそうになることも度々でした。
それでも気の遠くなるような作業をくり返し、ようやく理想的な配合にたどり着きます。
しかし、ここからが難関でした。
麺を長期保存させるためにどうすれば良いのか?幾度も試行錯誤を繰り返しては失敗ばかり。単に自然乾燥させるだけではムラができ、どうしてもうまくいきません。
ある日のこと、百福が台所へ行くと妻が天ぷらを揚げていました。よく見ると、熱い油の中で小麦粉の衣は、泡を立てながら水分をはじき出しているではありませんか。そして気付きました。
試しに麺を油で揚げてみると、麺の水分が天ぷらと同じようにはじき出されていきます。油から引き上げてみると、麺は完全に乾燥した状態となっていました。そのまま半年放置しても、変質や腐敗はしませんでした。
長期保存の方法を獲得し、懸念だった簡便性についてもフライ製法であれば解決することがわかります。水分が抜けた穴へ注いだお湯が吸収・浸透され、麺がやわらかい状態に戻りました。
世界初のインスタントラーメンの発売
こうして百福は「瞬間油熱乾燥法」という製造技術を開発し、1958年(昭和33年)8月、世界初のインスタントラーメンとなる「チキンラーメン」が発売されました。お湯を注ぐとたった2分で食べられるということで、当時の常識では考えられないことから「魔法のラーメン」と呼ばれました。
しかし、どんなに良い商品でも値段が高ければ売れません。
当時はうどん玉が6円の時代だったため、35円もするチキンラーメンは敬遠されたといいます。
しかし実際に食べた人々から、「これはおいしくて便利だ」 という口コミが広まり、問屋へ注文が殺到しました。ついにはあまりの人気のため、問屋のトラックが工場前で列をなすほどの大ヒットとなりました。大ヒットの理由は、その美味しさだけではありません。
当時の日本では共働き世帯や核家族化が進んでいた時代背景もあり、長期保存が可能なインスタントラーメンは主婦の強い味方となった側面がありました。また時期的にスーパーマーケットの黎明期と重なっており、物流・流通が革命を迎えたことも大きな後押しとなったのでしょう。
そしてチキンラーメンは現在でも愛される日本を代表する食品となりました。チキンラーメンを成功させた百福は、次の目標を見据えます。それは日本だけでなく世界中の人々にチキンラーメンを食べてもらいたいということでした。
カップラーメンの開発
1966年(昭和41年)、欧米へ視察にいった百福は、そこで意外な光景を目にします。
それは現地のスーパーの担当者が、チキンラーメンを小さく割って紙コップに入れ、お湯を注いでからフォークで食べ始めるというものでした。
そう考えた百福は、麺をカップに入れてフォークで食べるという新製品の開発に没頭します。
容器の問題
まず問題になったのはカップ容器をどうするかでした。試行錯誤の結果、素材として選んだのは、軽くて断熱性があり、経済性にも優れた発泡スチロールでした。
しかし当時の日本にはまだ発泡スチロール容器を製造する技術がありません。アメリカから船便で輸入されてくるのですが、どうも臭いがきつくて食品向けではありません。
そこで自社製造に乗り出します。かなりの時間を要しましたが、アメリカの品質基準をはるかに上回るカップを完成させました。
麺の問題
次に立ちはだかったのが麺の問題です。カップの中に入れたとしても輸送中に麺が壊れてしまう可能性がありました。そこで考え出したのが、カップの底より麺を大きくすることにより、カップの中間に固定するという「中間保持法」のアイデアでした。
これなら壊れる心配はありませんし、何よりお湯を注いだ時にカップの中で対流が起き、ムラなく麺が戻るというメリットがあります。
どうにかして解決したものの、またしても頭を悩ませる問題が出てきました。いざ麺をカップに収めようとすると傾いたり、ひっくり返ったりして、うまくいきません。人の手で作業するのなら可能でしたが、大量生産する以上はそうもいきませんでした。
解決方法を寝ても覚めても考えていた百福でしたが、ある晩のこと、ついにひらめきました。布団に横たわっていると、天井が突然ぐるりと回ったような錯覚に陥ったといいます。
まさに逆転の発想によって問題は解決し、商品の大量生産が可能となりました。
カップヌードルの販売開始
1971年(昭和46年)9月、ついに画期的な商品となる「カップヌードル」が販売されます。しかし満を持して発売されたものの、どうも売れ行きがパッとしません。なぜなら乾麺が25円の時代に100円という値段は高すぎました。また立ったまま食べるのは公序良俗に反すると批判されたからです。
そういったこともあって、カップヌードルはなかなか店頭に並ばなかったといいます。そんな逆風の中でも、百福のバイタリティは衰えませんでした。
「それなら独自の販促ルートを作ろう」と、お湯の出る自動販売機を全国に設置。その数は1年間で2万台に及んだとも。
また多くの若者が集まる銀座の歩行者天国に着目し、カップヌードルの試食販売を実施しました。すると予想を大きく上回る人々が押し寄せ、多い日には2万食を売り尽くすほど人気を集めたといいます。
世界に広がるカップヌードルの人気
やがてカップヌードルの人気を決定づける事件が起こります。それが「あさま山荘事件」でした。その模様は連日テレビで中継され、機動隊員たちがカップヌードルを食べている様子が映し出されます。結果的に全国の視聴者にアピールすることになり、大ヒットを記録する商品となりました。
またカップヌードルは世界でも愛されるようになり、アメリカだけでなく欧米・アジアなどでも高い売り上げを誇りました。
百福は晩年になっても製品開発への意欲は失いません。91歳という高齢で宇宙食の開発を宣言し、自ら陣頭指揮を取って「宇宙でも食べられるラーメン」の完成に取り組みました。無重力状態でスープが飛び散らないようなとろみを付けたり、麺を一口サイズにするなど、独自の工夫を凝らした技術が盛り込まれ、「スペース・ラム」と命名された宇宙ラーメンは完成を迎えます。
実際に2005年(平成17年)、野口宇宙飛行士は人類で初めて宇宙ラーメンを食べました。「地球で食べるラーメンがきちんと再現されている」と大変感動したそうです。
それから2年後の2007年(平成19年)、精力的に活動していた百福でしたが、新年早々に体調を崩し、急性心筋梗塞で帰らぬ人となりました。しかしインスタントラーメンを開発し、世界の食文化を変えたという功績は、現在でも多くの開発者たちに受け継がれていることでしょう。
とここまでが安藤百福氏の功績と人生です。
ポイント
- 日清食品の創業者「チキンラーメン」「カップヌードル」の開発者。
- 台湾本島人出身で、幼少期から呉服店を営む祖父母の姿を見て育った。
- 47歳で全てを失ったが、48歳にチキンラーメンを、61歳にカップヌードルを完成させた。
それでは次の項目です。
2.安藤百福氏を観相学で観る!
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。
観相学で観る前の注意点
僕は安藤百福氏に会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。
あんどう3つの違う年代の写真を観てみましょう。一番若い時の写真はかなり凛々しいですよね。だいぶとカッコイイです。
顔の形の鑑定
はい、顔の形から観ていきましょう。
これは非常に良い形です。なんか首が太く見えるのはこの写真だけでしょうか?
ものすごく意思が強い、やりとげる、一つの分野では必ず頂点に立つと言われる相なんですが、仕事の面はいいですが、逆に家族や配偶者を犠牲にする時があるとも言われております。
この百福氏の奥さんはどうだったんでしょうか?
何かを達成する為には他のモノを投げ打ってでもやり通す人に多いのです。
この場合、顔型、頬骨、顎の部分をセットで観ています。このパターンもあるので覚えててくださいね。
額の鑑定
額は非常に広く、生え際も直線系です。
良い部分は頭の良さや真面目さなどでありますが、逆にその分、一切意見を聞かない頑固さも持ち合わせていますが、卑怯な事などはしないという利点がございます。
眉・目の鑑定
眉毛も吉相なんですが、この時代ですので、眉カットしてないですよね?かなり綺麗にそろってますが。
非常に整った有能さが目立つ眉でございます。
ただそう何もかもうまくいかないもんで、眼は特に吉相ではございません。
左眼はまぶたの中央が少し下がっていますね。これはリアリストなどに多いとされている目で、ビジネスには向いてますが、愛情運・家庭運はあまり無いと占断されるケースが多いでしょう。
右目はまだ良いエネルギッシュや実力・才能があるタイプではありますが、タガが外れると超絶遊び人になってしまいます。遊びの方にフルパワーのエネルギーがいくパターンです。吉凶入り混じりというやーつです。
雌雄眼は頭脳が冴え、成功も呼び寄せますが、周りの人の損などを顧みない事も多々あります。しかし女性ではないので、一応プラスよりと観ても問題ないでしょう。
雌雄眼
鼻の鑑定
鼻はおじさんになってからの写真が一番観やすいですよね。
めちゃくちゃ立派、リーダーかつエネルギーの塊ですが、鼻の穴が少し前に向いているので、お金は入るけど、大きく垂れ流すとも読めます。
耳の鑑定
耳は内輪が少しだけ出てるので、行動的な人間ではありますが、おじさんの方の写真で観ると穴が少し大きく感じるのでお金に無頓着な部分があります。
ただ耳の形のバランスはいいので、名誉などは得られると観るポイントです。
人中の鑑定
人中薄めもお金での失敗がよくあると言われる人間です。
面相による安藤百福氏の鑑定
これにより面相だけで安藤百福氏を鑑定するならば、頭の良さ、努力・忍耐で成功は掴むが、それには家族や他の人間を犠牲にすることがあり、大きくお金でミスる事もあるので、まさに波乱万丈の相と呼べるでしょう。
この方の人生を観てからですと、浮き沈みがあり、浮いたところが大きかったのでまだ耐えれましたし、運や周りの人の助けもあったのでしょう。おじいさんになっての面相は安定していますが、気苦労が抜けてはいない面相ですので、生涯現役を貫いていた事がよくわかります。
ポイント
- 頭の良さ努力忍耐で成功は掴むが周囲が犠牲になる事も。
- 大きくお金で失敗する事もある、まさに波乱万丈の相である。
それでは最後の項目です。
3.安藤百福氏から何を学ぶか?
これはやっぱりめげない心でしょう。週一Instagram質問にも「私は〇〇歳ですが、まだいけますか?」的なメッセージを頂きますが、安藤百福氏は47歳で全てを失って48歳にインスタントラーメンを完成させます。カップヌードル完成は61歳です。
どんな年齢でもチャレンジする事によって人間は何でも出来る!という事を僕らに告げている気がします。
ビジネスでも恋愛でも、綺麗ごとではなく年齢は関係ありませんので、嫌な出来事がありショボーンとしている方がもしいらっしゃったら、安藤百福氏を見習って、今からでも遅くはないので奮起しましょう!
何歳でも関係ありません!ようは行動するか、しないか、ただそれだけです!
ポイント
- 失敗してもあきらめないバイタリティ、ー言で言うと『めげない心』。
- 何かを始めるのに年齢は関係ない!今からでも遅くないので奮起しよう!