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はじめに
今日はあの漫画家さんです。以前、記事を公開しました、手塚治虫先生と比べたら少し知名度は下がってしまうかもしれません。
しかし彼の描いた作品はこの令和の現在でも生き続けております。その漫画家の名前は「石ノ森章太郎」先生、今現在も続いてる作品というのは仮面ライダーの事です。少しネットを調べてみたら、現在は「仮面ライダーセイバー」というのが一番新しいみたいですね。僕はヴァンパイアセイヴァーしか知りませんが、こんなに長くシリーズ化しているのは正直いってすごいですね。
僕が子供の頃は初代とかV3、アマゾンとかでした。変身ベルトを子供の頃、買ってもらった記憶があります。石ノ森章太郎先生自身も、自分が亡くなった後、こんなに続いているとは天国で驚かれているのではないでしょうか?
本日はそんな石ノ森章太郎先生の人生と観相学をやってみたいと思っています。彼がどんな事をしたか、という部分に興味がなく観相学だけを観たい場合はそちらの項目まで飛ばしてください。
実は僕は結構な種類の漫画を読んできてはいるんですが、ほぼ石ノ森先生の作品とは縁がなく読んでいません。冒頭で話しました仮面ライダーも子供の頃に特撮アニメを観たくらいのもので、漫画を読んだ事は正直ありません。
『サイボーグ009』、『人造人間キカイダー』も知ってはいるものの、先生の漫画として目を通した事はございません。
僕の薄い知識でいえば、
- 藤子不二雄先生の漫画「まんが道」で出て来た石ノ森先生のイメージ、絵がうまく手が早いので、藤子不二雄先生が1ページ描く時間で3ページ描ける
- お姉さんがすごく綺麗で石ノ森先生の初期の作品「龍神沼」でモデルに使われた
くらいの浅い知識しかありません(笑)
それゆえ、まぁ占断はフラットに出来るかなという気はします。手塚治虫先生の偉人観相学と違い、僕自身の思い入れが特にないので。
というわけで今日も先生の人生からみていきます。本日の項目です。
- 石ノ森章太郎先生はどのような人生を歩んだか
- 石ノ森章太郎先生を観相学で観る
- 石ノ森章太郎先生から何を学ぶか
の三項目でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず、
1.石ノ森章太郎先生はどのような人生を歩んだか
「漫画の王様」「漫画の帝王」と称された昭和を代表する漫画家・石ノ森章太郎先生ですが、彼を知る人たちの多くは「あの人は天才だった」と語っています。他の追随を許さないほど多くの作品を生み出し、その独創的ともいえる作風は、まさに手塚治虫先生と双璧をなすものでしょう。
また「仮面ライダー」や「サイボーグ009」など、現在でも新作やリメイクを重ねながら、石ノ森先生の作品たちは生き続けています。
石ノ森章太郎先生の本名は「小野寺章太郎」といって、石ノ森(昭和59年までは石森)はペンネームです。
生い立ち
石ノ森先生が生まれたのは昭和13年(1938)年のこと。石ノ森先生の生家は現在でも残されています。家は雑貨屋を営んでおり、大きな造りの屋敷でした。
姉由恵は近所でも美しく聡明だと評判でしたが、生まれつきひどい喘息に苦しんでいました。
ちょうど石ノ森先生が小学校に入学した年に終戦を迎えましたが、この時に近所の人たちと玉音放送を聞いたといいます。
さて戦争も終わって平穏な日々が訪れる中、字を覚えた石ノ森先生は読書に没頭するようになります。ところが石ノ森先生は原因不明の湿疹に悩まされることになります。そんな姿を見られたくない石ノ森先生は、だんだん学校を休みがちになり、家に籠もるようになります。
家の中にはやはり外に出られない喘息持ちの姉がいたため、石ノ森先生は姉を楽しませようと、絵を描いてみたり、面白い話を聞かせたそうです。自分の作った話を姉が喜んでくれる。それが石ノ森先生にとって大きな慰めとなりました。
そして大事な人のために精一杯のことをする。そのことに生きがいを見出します。
親に反対されながらも漫画家を目指す
そんな思いが形となったのは中学生になってからのこと。昭和25年(1950年)、自分の実力がどれほどのものか知りたかった石ノ森先生は、「毎日中学生新聞」の読者投稿漫画に応募します。そして見事に入選して新聞に掲載されました。
やがて高揚した気持ちは漫画家になりたいという決心に変わっていきます。
ところが将来は漫画家になりたいという石ノ森先生に対し、厳格な父は反対するばかり。「大学を出て、ちゃんとした仕事に就け」としか言いませんでした。時にはせっかく描いた漫画を破り捨てられることも。
そんな中でも姉由恵は良き理解者だったといいます。
と。大好きな姉に褒められたい。そんな思いの中、石ノ森先生はますます漫画に没頭していきました。
やがて中学3年生になった石ノ森先生は、投稿漫画に大きくスペースを割いていた「漫画少年」に応募するようになります。創作活動により熱が入り、その努力が実って徐々に雑誌に載りはじめました。「漫画少年」への投稿も頻度を増し、すでに常連と呼ばれるようになっていました。
上京、漫画家デビュー
そんな時、石ノ森の元へ東京から1本の電報が舞い込みます。
「仕事を手伝ってほしい」それは憧れの手塚治虫先生からのスカウトでした。そして上京した石ノ森先生は、手塚先生の傑作「鉄腕アトム」を手伝いながらプロの仕事を学んでいきます。
やがて手塚先生の仲介もあって「漫画少年」でデビューを飾りました。漫画家としての処女作は「二級天使」という作品だったそうです。
この連載は石ノ森先生が高校2年の秋に始め、翌年秋に「漫画少年」が廃刊になるまで続きました。高校卒業後、親の反対を押し切った石ノ森先生は晴れて上京し、姉とともに暮らすようになります。
トキワ荘での生活
新しい生活をスタートさせたのは、昭和の若手漫画家たちが住んでいたというトキワ荘でした。
上京したものの、石ノ森先生は突如、挫折を味わいました。連載を続けていた「漫画少年」が廃刊となり、いきなり生活の糧が絶たれることになります。せっかく描いた漫画を雑誌社に持ち込んでも採用されない日々。
そんな落ち込む石ノ森先生を、常に姉は励まし続けました。
「江戸時代に写楽っていう浮世絵師がいたけど、彼も最初は売れなかった。でも今では世界的に有名な画家よ。」
そんな石ノ森先生に、講談社から救いの手が差し伸べられます。
雑誌「少女クラブ」に連載の依頼があり、少女漫画にしては異色の探偵物を担当することになりました。トキワ荘に住む漫画家たちの中で、石ノ森先生は最年少だったものの、誰よりも早く出世作を世に出したわけです。
姉の急死
とはいえトキワ荘での暮らしぶりは充実したものでした。しかしトキワ荘での生活は楽しいことばかりではありません。
石ノ森先生にとって忘れたくても忘れられない出来事が起こります。
上京して1年が経った頃、姉由恵の症状がにわかに重くなりました。石ノ森先生は赤塚不二夫先生らに付き添われて病院へ向かいます。
入院したことで症状は落ち着いたのですが、安心して外出した矢先に姉は急死してしまいました。この時に石ノ森先生が受けたショックは相当なものでした。
後悔のあまり筆を折ることも考えたのだとか。
姉が亡くなった今、
と自責の念が頭をもたげてきます。
海外旅行と新たな連載
失意の中で仕事をこなし続けていた石ノ森先生ですが、しばらく日本を離れることを決意しました。当時はまだ個人での海外旅行が許されなかった時代です。昭和36年(1961年)、出版社から原稿料の前借りをしたうえで、記者としての肩書で海外旅行に出発しました。
アメリカ、ヨーロッパ、アジアへと渡り、今まで自分が知らなかった世界を見聞します。すでに漫画家をやめるつもりでしたから、帰国後は別の仕事で働きながら金は返せばいい。そんなふうに考えていたそうです。
ところが海外での70日間にわたる体験が、石ノ森先生の魂に火を付けることになりました。
翌年にトキワ荘を出た石ノ森先生は、アニメーション制作会社「スタジオ・ゼロ」を設立。
そして昭和39年には「週刊少年キング」で新たな連載が始まりました。それが石ノ森先生の代表作となった「サイボーグ009」です。
海外で多くの人種と出会ったこともあり、キャラクター設定は非常に国際色豊かなものとしました。また女性や赤ちゃんもメンバーに組み込みます。こうして魅力的なストーリーと重なって「サイボーグ009」は大ヒットとなり、50年以上にわたって新作やリメイクが続く傑作となりました。
特撮原作者としても活躍
そしてテレビ時代の到来とともに石ノ森先生に新しい肩書が加わることになります。それが特撮原作者というもの。
その皮切りとなったのが「仮面ライダー」です。放映が開始されてから瞬く間に子供たちのヒーローとなり、その変身ポーズは誰もが真似をするほど。さらに「ロボット刑事」「秘密戦隊ゴレンジャー」が立て続けに放映されました。
とはいえあくまで子供向けで尺の関係もあり、石ノ森先生が本来描きたかった内容ではなかったようです。そこで漫画版を刊行することで、より濃密なストーリーを描き切りました。
また石ノ森先生が手掛けたのはヒーロー物ばかりではありません。
幼児や女子でも楽しめる特撮・アニメ番組として、「がんばれ!!ロボコン」や「美少女仮面ポワトリン」「さるとびエッちゃん」など、年代や性別に配慮した作品も代表作となっています。
「すべての人に楽しんでもらいたい」そんな思いが伝わってくるようです。
石ノ森先生の天才ぶりは多作というだけではありません。漫画を描くスピードも格段に速く、普通の漫画家の数倍の速度で描いていたそうです。
漫画家のセオリーとしては、ストーリーやセリフなどを1シーンごとに考えながら描くのに対し、石ノ森は頭の中で単純な構成やガイドラインを思い浮かべるのみ。あとはそれに従って思うがままに筆を走らせていたといいます。いわば感覚とインスピレーションだけで描いたということですね。
と語っていたそうです。
現代物で複雑な人間模様を描写した「HOTEL」、学習漫画として一世を風靡した「マンガ日本の歴史」「マンガ日本経済入門」など、これまでの石ノ森作品とは違った魅力が評価されています。
晩年の石ノ森章太郎氏
平成4年(1992年)、悪性リンパ腫に罹った石ノ森先生は、闘病生活を続けるものの次第に病状が悪化。平成10年(1998年)に亡くなりました。奇しくも敬愛する手塚治虫先生と同じ享年でした。
そして石ノ森先生が生み出した数多くの作品は、現在でも日本のみならず世界中の人々から愛読されています。
とここまでが石ノ森先生の人生でした。
ポイント
- 「漫画の王様」「漫画の帝王」と称された昭和を代表する漫画家。
- 挫折を経験するも、姉の存在・言葉が支えとなった。
- 海外での70日間にわたる体験がきっかけで魂に火がつき、「サイボーグ009」を生み出し、特撮原作者という肩書きが加わり「仮面ライダー」を生み出した。
それでは次の項目です。
2.石ノ森章太郎先生を観相学で観る
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。
観相学で観る前の注意点
僕は石ノ森先生に会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。
それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。
というか、何しろネットにある写真が見づらい!
メガネは偉人観相学ほぼド定番になってきましたが、だいたいもじゃもじゃ頭に色眼鏡のしかありません!一時期のレニークラヴィッツスタイルの写真しかないんですよね、石ノ森先生が成功されてからメディアで撮られているお写真って!こんな観相師泣かせの人いるでしょうか!
というわけで、若き日の白黒の漫画を描いておられる最中の一枚で観ていきましょう。おそらくはこれ、トキワ荘で撮られたんでしょうか?画像も小さくて画質もよくないんですよね。観れる部分はカラーの方も使い分けて観ていきましょう。
顔型の占断
まずは人を観た時は顔型から、という事でこの顔の形は四角く良い面相です。成功する方に多く、非常に活発でエネルギーに満ち溢れてる、お金は成功もついてくると読み、この顔型の人は顔色も重要になってくるんですが、写真などでそこまで完璧には観れませんね。
実際、このカラー写真以外にもネットで沢山、写真を観させて頂いたんですが、写りによって正直、皮膚の色が全然違ってくるんです。まぁライティングや場所等もあるんでしょうが。なので適当な事を言いたくないので、肌の色についての鑑定は控えさせていただきます。
額の占断
額は完全に全部が映っている写真がないんですが、生え際と共に数枚の写真から予想させて頂くと吉相で、おおらかな性格。ただ女性には甘くなりがちなので付け入れられるタイプと遭遇すると、女難の相ともいえます。石ノ森先生の人生はどうだったんでしょうか?そして額の紋も何枚かの写真ではあるモノもあったんですが、それも表情によるもので不確定です。
眉間の診断
しかし印堂の紋、要するに眉間ですね、そこの嫉妬紋はありました。人を信じられない、負けず嫌い、その名の通り、嫉妬心が強いと読める部分です。
そこまでは成功後の写真から読めたのですが、目の付近、山根・眉・目などはこの白黒の若かった時の写真一枚からの判断になってしまうので、すごく不安です。
観相学のコーナー、偉人にしても悪人にしてもそうなんですが、この画面に映っている写真だけではなく、僕はネットにある観られる写真は結構な枚数観て記事を作っています。今回はその辺が見えるのがこの白黒写真くらいしかなかったんでちょっと心配なんです。トキワ壮の仲間と映ってる写真なども顔が小さくて使えないんですよね。なのでこの眉・目辺りは少し更に確度が下がると思ってくれれば幸いです。
眉の占断
若い白黒写真で観ると眉は吉相になります。男女どちらでも良いとされる眉で、人にすごく恵まれるという眉なんです。これは後付けでも何でもない出来過ぎた話なんですが、ピンチの時でも親兄弟の親族に救われる事が多いとも言われています。まさに彼にとってのお姉さん・由恵がそうだったのではないでしょうか。
田宅の占断
田宅も良いです。広すぎず、狭すぎず。懐事情は安定と読みますが、彼の若い時は借金まみれだったようですけどね。アホほど浪費すれば、面相も関係なくなりますよね。
目の占断
そして目ですが、ものすごく一つのモノに集中できる目でだいたいは良い側に働くのですが、悪い方にこだわりが強いと暴走している危険性もあります。
執着心が強いとしますので、先生の場合はそれが漫画だったから良かったものの、例えば一人の女性などに執着するとストーカーになったりの危険性もありますので、吉凶入り混じりと読むのが一番ポピュラーですかねぇ。
鼻の占断
そして鼻です。非常にいい形の吉相であります。仕事やお金に関してはバッチリでしょう。鼻の穴の向きもいいですね。
耳の占断
しかし耳だけはどの写真を探してももじゃもじゃの髪の毛が邪魔して見える事はなかったので読み取り不可能です。すいません。
人中の占断
人中は下にいくに連れて少し広くなっていく、人の面倒を見るのが好きで金運良好とする吉相です。
ほうれい線の占断
また実は一般の方は気にしない部分かもしれませんが、ほうれい線が非常にいいんですよね、石ノ森先生は。自分の仕事でMAX力を発揮できる幸運相で、この部分はさすがにズバリ的中していますね、素晴らしいです。
口の占断
口もどの写真で観ても良かったです。辛抱できる上、情熱や熱意をもって物事に打ち込めます。
石ノ森章太郎氏の面相での占断
というわけで、石ノ森先生の顔を人生でマジマジと初めて鑑定しましたが、かなり良かったですね。おそらくは皆さんも、色眼鏡かけてるだけで人は人相悪くみられがちゆえ、そう思ってた方も少なからずいるのではないでしょうか。
しかし吉相部分が多く、面相のみで占断するならば、人に恵まれつつ、自分の好きな仕事を限界突破できるほどの熱量・才能・辛抱する力を持ちお金・成功もついてくる。遊び過ぎる部分、浪費し過ぎる部分、人に嫉妬する部分等もパーツにはあるのも事実ですが、それを上回る実力があったという事でしょうね。
ポイント
- 人に恵まれつつ、自分の好きな仕事を限界突破できるほどの熱量・才能・辛抱する力を持ち、お金や成功もついてくる。
- 遊びすぎる部分、浪費しすぎる部分人に嫉妬する部分もあるが、それを上回る実力があると言える。
という事で最後の項目です。
3.石ノ森章太郎先生から何を学ぶか
石ノ森先生は生前、
と語られております。
まさにこれはオカルトやマルチ、宗教にスピリチュアルにハマっている人に言ってあげたい言葉ですね。何でもかんでも盲信するのは危険。
そして常にやった事は全部自分の責任ですからね。もし何かを盲信している時はこの石ノ森先生の言葉を思い出してみてください。
ポイント
- 石ノ森章太郎先生の言葉から、何でもかんでも盲信するのは危険!
- やったことはすべて自分の責任ということを理解しましょう。