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はじめに
今日は今までの偉人観相学の中では手塚治虫先生と共に最もよく知っている、そして興味がある分野に入る人物です。
本人を見た事も挨拶させてもらった事もあります。ほとんどの人が知っているでしょう、そう「アントニオ猪木」さんです。
僕の大好きな番組「水曜日のダウンタウン」の「日本人の有名人 知名度ランキング」のコーナーでは90.8%で第11位にランクインされていましたので、日本人で11番目に有名な人、という事です。ちなみに第1位はタモリさんでした。ご参考までに。
確かに猪木さんは、彼のモノマネだけでやっているタレントさんが沢山います。春一番さん、アントキの猪木さん、アントニオ小猪木さん等。
そしてプロレス・格闘技漫画にも必ず彼をモデルにしたキャラクターが出て来ます。高校鉄拳伝タフのアイアン木場、刃牙シリーズでのアントニオ猪狩、餓狼伝のグレート巽からファミコンディスクシステムで任天堂から発売されたプロレスにまでファイターハヤブサとして登場します。
そんな偉大なプロレスラー「アントニオ猪木」さんを今日は観相学で観ていきます。
猪木さんがまずどういった人生を送ったかから解説しますので、観相学を今すぐ観たい!と言う方は記事をスキップしてください。本日も最後までお付き合いください。
それでは本日の項目です。
- アントニオ猪木さんはどんな人生を送ったのか?
- アントニオ猪木さんを観相学で観る
- アントニオ猪木さんから何を学ぶか
の三本構成でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず、
1.アントニオ猪木さんはどんな人生を送ったのか?
昭和から平成、そして令和にかけて日本人に夢と希望を与え続けている人物がいます。それが「燃える闘魂」ことアントニオ猪木です。
「アントニオ」というファーストネームが付いていますが、外国人やハーフというわけではありません。れっきとした日本人です。
プロレスラーとして有名ですが、政治家や実業家としての側面もありました。その闘魂人生をひも解いていきましょう。
生い立ち
のちのアントニオ猪木こと猪木寛至は、昭和18年に11人兄弟の9番目として、神奈川県横浜市で生まれました。祖父が親代わりとなっており、祖父から常に「何でも世界一になれ。心の貧乏人にだけはなるな」と諭されていました。
12歳で中学校に入学した猪木は、まだ一年生だというのに身長は180センチを超えていました。
ブラジルに移住するも力道山のスカウトで帰国
猪木一家はブラジルに移住します。険しいジャングルを抜け、サンパウロ郊外のコーヒー農場で働くことになりましたが、労働環境は苛酷だったといいます。苦しかった雇用契約の1年半が終わると、一家は改めて落花生栽培を始めます。
そんな中、猪木はサンパウロの青果市場で働くうちに、砲丸投げや円盤投げといった投擲競技で頭角を現します。そして全ブラジル陸上競技大会の円盤投げ種目で優勝。
たまたまブラジルを遠征していたプロレスラー力道山が「素晴らしい身体能力を持った日本人がいる」という噂を聞きつけ、猪木を呼び出しました。そして開口一番。「おい、裸になれ」と命じました。
猪木の肉体を凝視し、納得した様子の力道山は言葉を繋ぎます。「よし、日本へ行くぞ」と。家族は一様に賛成してくれたものの、母だけは反対したといいます。
日本へ戻る決心をした猪木は、力道山の付き人として帰国。
当時の日本プロレスでのトレーニングは苛酷そのもの。延々と続く厳しいトレーニングの中、もし倒れれば容赦ないゲキと竹刀が飛んだといいます。
「アントニオ猪木」としてプロレスラーになる
やがて猪木は5ヶ月のスパルタ教育の果てに念願のデビューを果たしました。昭和35年に本名の猪木寛至でリングに立つものの、わずか7分で敗退。馬場も同日にデビューを果たしていますが、こちらは勝利を飾っています。デビューから2年後、猪木はリングネームを「アントニオ猪木」に改名。
昭和38年に力道山が事件に巻き込まれて突然の死去。理不尽な師匠がいなくなって猪木はホッとするどころか、改めて身が引き締まったといいます。
力道山の死後、猪木はアメリカへ武者修行に出発し、慣れない現地で苦労しつつも貴重な経験を重ねました。そして幾つかの王座を獲得し、2年後の昭和41年に武者修行を終えました。
ところが帰国の途上に立ち寄ったホノルルで待っていたのが、元力士でプロレスラーとして活躍していた豊登です。「日本プロレスに帰っても馬場の2番手にしかなれない。俺が作る団体に来たら社長兼エースにしてやる」と口説きました。
新団体を旗揚げ
その気になった猪木は帰国直後に日本プロレスを脱退し、豊登とともに東京プロレスを旗揚げします。
ところがせっかく作った新団体は観客動員もうまくいかず、倒産の憂き目に遭いました。最終的に古巣の日本プロレスへ戻ることになります。
日本プロレスに復帰した猪木は、ライバルであるジャイアント馬場とタッグを組むことになり、馬場と猪木のBI砲は一世風靡し、タッグ王座も獲得します。
「猪木が団体を乗っ取ろうとしている」と弾劾され、ついに猪木は日本プロレスから追放されてしまいました。
そこで猪木は再び新しいプロレス団体の発足に乗り出します。新日本プロレスを旗揚げしたのが昭和47年のこと。
また前年の11月には女優の倍賞美津子と結婚しています。猪木にとってこれが2度目の結婚でした。
しかし発足したばかりの新団体も運営がうまくいきません。当時はテレビ放送も付かず、非常に苦しい経営状況だったといいます。当時は無名だった選手を日本へ呼び寄せ、外国人エースとして育成しました。
こうして新日本プロレスの運営は軌道に乗り始め、猪木は従来にはなかった新しい格闘エンターテインメントを模索していくのです。
と標榜し、異種格闘技戦を華々しく興行しました。
モハメド・アリとの戦い
「最強の格闘技はボクシングだと公言しているチャンピオンがいるそうじゃないか。ぜひ対戦したい」
そのボクサーこそ、最強チャンピオンとして世界の注目を集めるモハメド・アリでした。海外では無名だった猪木は挑戦状を送り、そして粘り強い交渉の結果、アリは日本で試合をおこなう調印書にサインします。
昭和51年、日本武道館で猪木とアリの戦いが実現。この時に猪木は、圧倒的に不利なルールも全部飲むようスタッフに指示したそうです。試合は15ラウンド闘い続けて引き分けに終わるものの、世界に強烈なインパクトを残しました。
立ち技であるボクシングに対抗するべく、猪木は寝転がってキックで対応し、付け入るスキを見せませんでした。試合が終わると、蹴られたアリの脚は青黒く腫れあがり、歩行できなくなったという逸話も伝わります。
個人事業の失敗
猪木が率いる新日本プロレスは、まさにプロレス黄金期を作り上げましたが、同時に大きな困難にも見舞われています。それが猪木の興した個人事業の失敗でした。アントン・ハイセルと呼ばれる新エネルギー事業やレストラン事業など、事業を拡げては失敗することの繰り返しだったようです。
やがて莫大な負債を抱えるようになり、団体の運営資金にまで手を付けたといいます。さらに不倫騒動によって妻の倍賞美津子と離婚。公私ともにうまくいかない日々が続いたわけです。
昭和58年、猪木はついに責任を取る形で代表取締役社長を退任。また猪木と団体を支え続けてきた坂口征二も副社長から退きました。
ところが急転直下の事態が起こります。
新日本プロレスはテレビ朝日から新しく重役を迎えますが、その本人が猪木を救う一言を放ったのです。
この言葉に新体制派は震え上がり、改めて臨時株主総会が開かれました。その席上で猪木と坂口の復帰が決定されました。新日本プロレスは猪木あってこそのもの。それは多くの視聴者の総意でした。まさに猪木は世論に救われたわけです。
政治家としての活躍
猪木は自らのセカンドキャリアを見つけるべく、レスラーと政治家の二足の草鞋を履くことになります。
平成元年、スポーツ平和党を結党した猪木は、第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。見事に当選を果たして史上初の国会議員レスラーとなりました。
翌年にはイラクのバグダッドで「平和の祭典」を開催。猪木がイラク政府と直接交渉するべくイラク行きを決意したのですが、日本の外務省はこれに難色を示します。ところが猪木はトルコ駐日大使の力を借りて飛行機をチャーター。バグダッドへ飛んで平和の祭典を成功させました。やがて猪木の奔走もあって人質は解放され、社会的なニュースとなりました。
また猪木は北朝鮮とも深いかかわりを持っています。そこには師匠だった力道山の存在がありました。力道山が生前、何度も韓国を訪問していたことを知っており、平成6年に初めて北朝鮮から招かれたといいます。それ以来、30回にわたって北朝鮮を訪問し、要人たちと親密な関係を深めていたのだとか。
当時からすでに日本人拉致問題がクローズアップされていましたが、なかなか進展しない状況に苦言を呈していたといいます。また
と周囲に語るほどでした。
引退後の現在
本業のプロレスですが、平成10年に東京ドームで引退試合をおこない、有終の美を飾りました。その際に語った「この道を行けばどうなるものか…」というフレーズは、多くの人々の記憶に残っているほどです。
また引退後もプロレスはじめ格闘技に関わり続けました。イノキボンバイエやプライドなどの格闘イベント、IGFといった新団体の設立を主導し、格闘界の興隆に努力を惜しみませんでした。
令和元年の第25回参議院議員通常選挙には出馬の意向を示さず、実質的に政界を引退した形となっています。自身の年齢のことを考慮してのことでしょう。
令和2年、猪木は難病に罹っていることを公表しました。アミロイドーシスという病気で、現在も闘病生活を送っています。
最近になって腸捻転を患って入院したことが報道されていましたが、きっと持ち前の「闘魂」で持病を克服してくれるのではないでしょうか。
とここまでが猪木さんのこれまでの功績でした。
ポイント
- プロレスラー政治家や実業家としての側面も持つ。
- 設立した団体の運営が上手くいかなかったり個人事業の失敗をしたこともあった。
- モハメド·アリとの異種格闘技戦が実現し世界に強烈なインパクトを残した。
- 引退試合で語った「この道をいけばどうなるものか 」というフレーズは多くの人々の記憶に残っている。
それでは次の項目です。
2.アントニオ猪木さんを観相学で観る
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきますが今日は違います。僕はアントニオ猪木さんに会った事はちょっとだけありますし、実物の本人を観た事があります。それゆえ、いつもの観相学よりは確度が高いです。
写真や動画、思い出から面相を判断しますがパーフェクトに僕の占断が正しいわけではない事だけはご了承ください。
ここまで大スターですと、ネットにも画像が沢山あっていいですね。また動画も同じくいっぱいあるので、観相師からすると嬉しいです。喋り方なども観れます。大抵はプロレスファンにネタにされている部分が多いんですが(笑)
ファーストインプレッションで、誰もが目に付くのはやっぱり「アゴ」でしょう。モハメド・アリにもペリカンと揶揄されていたアゴです。どの漫画でもこの顎を強調させる事により、すぐに猪木さんをモデルにしたキャラクターだなとわかります。
顔の形の占断
この部分の解説は後にして、まずは顔の形から観ていきましょう。
と言っても顎が入ってきますね、顔型にも。若い時の写真でここは読み取りましょう。最近の写真で観ると痩せてきていますので、形が少し細長く見えてしまいますが、本来は顎が長いだけで、十字面相でいうところの「甲」や「申」とは違います。
この辺の読み取りが長く面相読みをやっている人でしかわからない箇所なんですが、顔の形は非常によくずっと幸福でいられて、必ずどの分野でも頂点に上り詰めると言われる顔であり、猪木さんはまさしくその通りになっているでしょう。強運、豪運と呼べるお顔ですね。
そして若い時の写真で観ると、かなりかっこいいのです。こりゃあまさにスター。
この時代の日本人で、この身長、この体格、この顔、そして運動神経。どうあがいてもスターになるべくしてなるタイプですね。外見のみでさすがにわかります。
余談ですが、知人プロレスラーと話していた時に、アメリカの有名レスラー「ビル・ゴールドバーグ」についても「あんな顔と身体だったら、勝手に成功するわ」と仰られていました。中身も大事ですが、こういった人に見られる商売は当たり前ですが、外身も大きく影響します。話題を戻します。
額の占断
次は額の診断になるのですが、額も特に問題はなく、生え際を読み取るとすれば、一つの事をコツコツと出来て、頑固で、固い人間です。人の意見を一切聞きませんね。猪木さんならそれでいいかもしれません。
眉の占断
次に眉毛ですが、非常によく人間関係に恵まれて、才能を開花できると言われていますね。若い時の写真で観る方がとりやすいと存じます。
田宅の占断
田宅は狭い方ですので、仕事やプロレスラーとしてはうまくいくかもしれませんが、家庭運には恵まれないと鑑定するのが通常でしょうね。
目の占断
続いて目ですが、目は一つの事に集中できて、賢く、しつこく、執着があるので、良い方に出ればうまく転がりますが、アントンハイゼルや永久機関開発の方に入れ込んだりすると失敗、いわゆる吉凶入り混じりというモノですね。
鼻の占断
鼻はわかりやす過ぎるくらいの吉相であります。長く高く立派な鼻、格闘技者でこの鼻を保っているのは素晴らしいですね。お金や成功・名声、そして何よりも元気がある、という猪木さんを表すような鼻ですね。
ほうれい線の占断
そしてお次は素人の方があまり重要視しない、ほうれい線ですが、猪木さんはかなり良いんです。こちらは若い時よりも少し年を取ってからの写真の方が判定しやすいんですが、口角につかずに長いほうれい線です。こちらの読み方は、自分に合っている仕事に就き、成功するというものです。日本一と言っても差し支えの無い有名プロレスラーですからピッタリと当てはまっているでしょう。
口元の占断
口元の読み取りは冷静かつ、頭が良く、お喋りだけでなく意外にも文才があるとも言えますね。多才ですし、歯も合わせていいですね。
顎の占断
そして問題の顎。ここが皆さん気になるはず。実は僕もここまでの顎は中々観る事はございません。レアパターンですが、面相読みから言わせて頂きますと、わかりやすい大吉相でございます。かなり前にも出ていて長いのです。これは相書には自分に誇りを持てる人間で、非常に熱い人間と書かれている部分なんです。
ちなみに余談ですが女性ですと読み取りが全く変わります。
例のKK母もすごく顎が発達されていますが女性の場合は全く逆の大凶相読みになることがほとんどです。
話を戻します。ズバリ「燃える闘魂」というのは当てはまっているんですね。このネーミングを付けた人は面相読み取りが出来る人だったかもしれません、といえばドラマチックなんですが、どうせ新間さんか、ゴマシオ親父だろう、と思って調べたら東京スポーツの櫻井康雄さんらしいです。どうでもいい豆知識でした。
アントニオ猪木氏の面相のみでの占断
というわけで猪木さんを面相で観るならば吉相の部分が多く、自分に自信があり、情熱もあり、そして一つの事を努力出来る男。天才的発想はたまに暴走する時がありますが、観相学で観てもまさに現代のヒーローと言える人物でした。
ポイント
- 吉相の部分が多く自分に自信があり情熱もあり 一つの事を努力出来る男。
- 天才的発想はたまに暴走する時があるが観相学で観てもまさに現代のヒーローと言える人物。
それでは最後の項目です。
3.アントニオ猪木さんから何を学ぶか
アントニオ猪木さんの名言と言えば
です。
単純明快なこの言葉は結構的を射ています。どんな実力者であろうが、才能があろうが、モチベーションは最も大事なモノです。猪木さんはこの言葉の通り、日本中に元気を振りまいてきました。
僕らも元気がなければ何にも出来ずに人生終わってしまうので、人生楽しい日もあれば、しんどい日もありますが、猪木さんの言葉通り、元気を出していきましょう!
ポイント
- アントニオ猪木さんの「元気があればなんでも出来る」の名言から、人生楽しい日もあればしんどい日もありますが元気を出していきましょう!