千代の富士

動画でも解説しております

はじめに

本日も偉人観相学のコーナーでございます。おそらく、この悪人・偉人観相学初、僕が本人を実際に観た事ある方が登場しました。

千代の富士本日はキン肉マンのウルフマンのモデルこと、昭和最後の大横綱・千代の富士さんです。別に相撲を観戦しに行って本人を見た訳ではなく、お相撲さんを引退された後、北新地に飲みに来ているところをお見掛けしました。

ご本人とは喋れていませんが、隣の席にいたので、観相学の超勉強になる!と思って、その時、食い入るように見させて頂きました。

声もかなり大きかったんで、喋り方などもよくわかりましたので、今回は初、写真・記事にプラスして僕の思い出、脳の中にある記憶を加味して偉人観相学のコーナーをやっていきましょう!

まずは千代の富士さんがどのような功績を残したか、どんな人生だったのかを話しますので、それは知っているという方は観相学のコーナーまで記事をスキップしてくださいね。

千代の富士はい、という事で、今日は千代の富士さん?千代の富士関?というのかな?僕、プロレスと格闘技はかなり詳しい部類の人間だと思いますが、お相撲まったく興味がございません。

相撲小学生の時とかはね、夕方、家に帰ったらおばあちゃんがNHKで観ていたので、一緒に観た記憶はありますが、自主的に観た事もありませんし、占いのお客さんらに相撲のチケットあげる、と言われても鉄板で「要らないです。どうせなら行きたい人にあげてください」と言ってきました。

それゆえ、千代の富士さんの人生を語る部分でお相撲用語等は読み方間違っていたりする事もあるかもしれませんので、先に謝っておきますね。それでは今日の項目です。

  1. 千代の富士関はどんな事をした人なのか?
  2. 千代の富士関を観相学で観る
  3. 千代の富士関から何を学ぶか

の三項目でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず

2.千代の富士関はどんな事をした人なのか?

千代の富士まずはいつものように彼がどのような力士だったのかを解説しましょう。

昭和最後の大横綱として、「ウルフ」の愛称で親しまれた千代の富士。幕内優勝は歴代3位の31回、連勝記録は双葉山の69連勝に迫る歴代3位の53連勝、そして幕内での通算勝利数は歴代2位の807という無双の強さを誇った力士でした。

生い立ち

千代の富士の本名は秋元貢といい、昭和30年(1955年)に北海道松前郡福島町で生まれています。実家は漁師を営んでおり、幼少の頃から手伝いをしていたこともあって、足腰が鍛えられたといいます。海の近くで育ったこともあって海の幸をよく食べていたそう。カレーライスの具にアワビが入っていたこともたびたびだったとか。上京して寿司屋に連れて行ってもらった時、その鮮度の悪さに驚いたというエピソードもあったそうです。

少年時代の千代の富士貢少年は生まれつき体格も大きく、運動神経も抜群だったそうで、中学時代には陸上競技に熱中していました。地方大会では優勝するほどの成績を収め、将来を有望視されていたとも。

いっぽう相撲に関しては、たまにラジオ放送を聞くくらいでほとんど関心を示しませんでした。

大相撲のスカウトをきっかけに上京

しかし中学3年生になった昭和45年(1970年)の夏、相撲に触れるきっかけが生まれます。地元で大相撲の巡業があり、スカウトから直接声を掛けられました。たまたま名横綱だった千代の山が先発で来ていて「身体の大きい子がいる」と聞きつけて貢少年の家まで勧誘に来たそうです。

しかし当初は「相撲は嫌だ」と言って難色を示しました。中学3年の貢少年は、まだ将来については何の展望もありません。それからは何度も相撲部屋の人間がやって来るようになり、熱心に誘いを受けました。そしてとうとう「はい」と返事をしてしまいます。「東京へ連れて行ってやる」ことと、「飛行機に乗せてやる」と言われたことがポイントになったとか。

九重部屋そして東京に着くと相撲部屋に連れて行かれます。そこは独立してまだ3年だった九重部屋でした。

相撲の稽古が本格化

相撲の稽古浅草橋の中学校に新学期から転校し、相撲の稽古が本格化していきます。学業のかたわら、部屋では身の回りのことをしなければならず、目が回るような忙しさだったとか。とはいえ人間関係は良好で、皆が貢少年のことを応援してくれたそうです。

相撲やがて同年秋、初土俵を踏みます。初日こそ黒星スタートだったものの、その後は5連勝を飾り、最終的に5勝2敗という成績に終わりました。

そして翌年1月には四股名を「千代の冨士」と名付けられます。九重親方となった千代の山と、先輩横綱の北の富士から取った名前ですから、いかに期待していたかがわかるでしょう。

千代の富士中学を卒業したのちは高校へ進学するものの、相撲と学業の二足の草鞋はさすがに厳しかったようです。そこで高校を退学し、相撲に専念することを決意して腹を決めました。

「ウルフ」というあだ名の由来

狼この頃の千代の富士は、まだ髪が短くて髷が結えません。稽古中にざんばら髪で精悍な顔つきをした千代の富士を見た北の富士は、思わず「何だかオオカミみたいだな」と言ったのだとか。その言葉がきっかけで「ウルフ」というあだ名が付けられたそうです。

駆け出しの千代の富士は、その取り組みの荒々しさもまさに「ウルフ」そのものでした。類まれな運動神経を活かして、強引な投げ技で相手を振り回すことを得意としています。技術も未成熟で力任せの相撲を取っていただけに、勝つ時は豪快そのもの。負ける時はあっさりという取り組みでした。

北の富士昭和52年(1977年)、九重親方が死去し、部屋は北の富士が継承します。

千代の富士は入幕こそ果たすものの、負け越しや度重なるケガもあって幕下へ順位を下げることもありました。

脱臼しかし強引な相撲は自らの肉体にも負担を掛け、そのダメージは蓄積してきます。もともと両肩関節の噛み合わせが浅く、左肩を脱臼しやすいという弱点を抱えていました。最初に肩が外れた時、自分で何とか入れられたものの、病院に行かなかったことが仇となります。

力任せの投げ技が増えていくとともに、脱臼はどんどん癖になっていったそうです。取り組みで突っ張っていき、相手に腕をたぐられただけで外れてしまうようになったとか。これではまともな取り組みなどできません。亜脱臼を含めると現役時代には20回近く脱臼したそうです。

また千代の富士の体格の小ささも関係していました。当時は平均して140キロ前後の力士が多いのに対し、千代の富士は100キロ足らずという小兵です。投げを打とうとすれば強引になりすぎ、また跳ね返されてケガが絶えなかったといいます。そこで他の力士に負けないため、ケガをしない体を作るために取り組んだのがウェイトトレーニングでした。

筋力トレーニング昭和54年(1979年)の春場所で右肩脱臼という大ケガを負った千代の富士は、途中休場して入院。そこで担当医師から筋力トレーニングを勧められたといいます。鉄アレイやダンベルなどを使った器具トレーニングを取り入れ、さらに毎日500回の腕立て伏せを自らに課しました。

千代の富士その甲斐あって「筋肉の鎧」ともいうべき鋼の肉体を手に入れたのです。肩の関節が外れやすいのなら、周りの筋肉でガッチリと固めるという方法が功を奏しました。

あんこ型の力士とは違ってまるでギリシャ彫刻のように強靭な筋肉は、恐るべきパワーを生み出しました。千代の富士が付き出した胸に頭をぶつけた力士が額を割ったというエピソードもあるほどです。また取り組みの型にも変化が見られました。

「右四つの型」強引に攻めるのではなく、力を有効に使うことが大切だと気付き、たどり着いたのが「右四つの型」と呼ばれるものです。右手を相手の左の懐に差し、そこから腕のパワーで引き付けるというものでした。腕の力だけで巨漢力士を持ち上げることもあったとか。

快進撃を見せ続け、ついに横綱に

やがて昭和55年(1980年)春場所から快進撃を見せます。横綱や大関を倒す金星を次々に挙げ、同年11月には関脇に昇進を果たしました。

翌年の1月場所になると輪島や若乃花といった実力ある相手を倒し、優勝決定戦では北の湖を見事に破って幕内初優勝に輝きます。それと同時に大関に昇進して一躍時の人となりました。

横綱になった千代の富士そして新大関で迎えた同年の春場所、またしても千秋楽で北の湖を破った千代の富士は優勝を果たし、横綱の座を掴んでみせました。

しかし宿舎へ戻ると、師匠の九重親方からこう言われたそうです。「成績が悪かったら辞めるしかないぞ」と。

横綱は幕内最高位で常に品格が求められる存在です。番付が下がることもありませんから、もし横綱らしい力が発揮できなければ即引退に繋がるわけです。九重親方は暗に引退のことまで視野に入れておけ。と釘を刺したことになります。

次の場所が始まると、千代の富士はさっそく引退のことを意識せざるを得なくなります。

隆の里との取組で、場所前から痛めていた足首を負傷。途中休場を余儀なくされました。場所2日目のことです。横綱の不甲斐なさにメディアや世間は大いに批判し、さすがの千代の富士もこの時は

千代の富士
「お先真っ暗」だった

と述懐しています。

しかし11月の九州場所には何とか間に合い、前半から中盤に掛けて頑張ったおかげで優秀戦線に踏みとどまりました。

ウルフフィーバーと全盛期

狼最終的に12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制し、横綱としての初めて優勝を遂げました。世間は千代の富士の横綱らしい取り組みに狂喜し、テレビ視聴率はうなぎ上りとなり、掛けられた懸賞金も他の追随を許しません。「ウルフフィーバー」と呼ばれる現象は日本全国を巻き込みました。

昭和57年(1982年)から昭和60年(1985年)にかけて、千代の富士にとって平凡な時代を迎えています。優勝こそするものの、不甲斐ない取り組みで横綱としての責任を問われることも度々でした。またケガに悩まされて「もはや引退か?」という声も囁かれるようになります。

横綱しかし千代の富士の全盛期は30代に入ってからでした。

昭和60年(1985年)の1月場所では全勝優勝を果たして批判を遠ざけ、昭和61年(1986年)から翌年にかけて5場所連続優勝を成し遂げます。やがて昭和63年(1988年)5月場所からの千代の富士はほぼ無敵となりました。

それまで20連勝が5度ほどあったものの、今回はさらに連勝記録を伸ばして大鵬の45連勝を抜き去り、同年の11月場所までの間に53連勝を記録しました。双葉山の69連勝、白鵬の63連勝には及ばないものの、小兵ながらこの成績は素晴らしいという一言でしょう。

力士としての限界

そんな順風満帆な日々を過ごしていた千代の富士にとって、大きな不幸がやって来ます。平成元年(1989年)に生まれたばかりの三女が死去。受けた精神的ショックは計り知れないものがあったといいます。

相撲「さしものウルフも相撲はもう取れないのではないか?」と思われた矢先、悲しみを乗り越えた千代の富士が土俵に帰ってきました。そして千秋楽で同部屋の北勝海(ほくとうみ)を下し、28回目の優勝を果たしたのです。

しかし力士としての限界は見え始めていました。思いもしない肉離れを起こしたり、自らの動きに精悍さが失われていることを自覚したり。そのいっぽうで「引退はまだ早い」という考えもあったそうです。

引退を決断する出来事

平成3年(1991年)の1月場所で通算805勝目を挙げ、現在では史上3位の勝利数を達成しましたが、次の5月場所で引退を決断する出来事が起こりました。

のちの貴乃花初日に新鋭の貴花田(のちの貴乃花)に寄り切りで敗れ、3日目には貴闘力に土を付けられます。

引退会見をする千代の富士「これはもう無理だな」と感じた千代の富士は、同日の夜に会見を開き、引退を宣言しました。ボロボロになるまで相撲を取るのも美学であるいっぽう、自分の考えで踏ん切りをつけることも大切だと感じたのでしょう。

「成績が悪かったら辞めるしかない」九重親方から言われた言葉を噛み締めていたのかも知れません。

部屋を継承し九重親方となる

九重親方翌平成4年(1992年)に部屋を継承し、改めて九重親方となります。

翌年には弟弟子である八角親方が部屋から独立して八角部屋を創設。そのため九重のほうが部屋を出ていく形となりました。そのため自宅を相撲部屋に改装したといいます。

九重の指導方法には大きな特徴がありました。それは単に厳しくするのみならず、力士の個性を伸ばすというものです。九重が現役時代に得意とした立ち合いは、他の力士にそのまま当てはまるものではありません。小兵だったからこその戦法でした。

ますます体の大きくなる現代の力士には見合わないものだと言えるでしょう。型にはめるのではなく、個性に応じた得意の型を見出させること。それが九重の目指したものでした。

日本体育大学相撲部とも連携し、将来有望な力士の育成にあたります。そのいっぽうで日本体育大学相撲部とも連携し、将来有望な力士の育成にあたります。

九重には厳しくも優しい一面があり、弟子たちとのコミュニケーションに心を配っていたとも。

千代大海現九重親方にあたる千代大海も人柄に魅了された一人でした。

九重は親方業に精進するいっぽう、日本相撲協会の役員もずっと務めていました。

平成27年(2015年)6月1日、現役時代の横綱が還暦を迎えた際におこなう還暦土俵入りを挙行。周囲からはますますの活躍が期待されていました。

晩年の千代の富士

手術しかしそんな矢先の翌月、内臓疾患を理由に場所を休場。膵臓がんが見つかって手術していたことが明らかになりました。

一時は体調も良好となり周囲も安心したものの、翌年になってがんが再発しました。すでに胃や肺に転移しており、放射線による治療が試みられますが、体調は悪化の一途をたどるばかりとなります。

平成28年(2016年)7月31日、ついに還らぬ人となりました。最後は苦しむことなく家族全員に見守られて亡くなったとのことです。葬儀・告別式は九重部屋で執り行われましたが、生前の人柄を偲んだ人々が1千人以上も集まったそうです。

千代の富士記録にも記憶にも残る昭和最後の大横綱だった千代の富士。その雄姿はこれからも日本人の心に深く残っていくことでしょう。

とここまでが千代の富士の人生でした。

ポイント

  • 昭和最大の大横綱として「ウルフ」の愛称で親しまれた力士。
  • 九重親方となりカ士を型にはめるのではなく、個性に応じた得意の型を見出させることを目指した。

では次の項目です。

2.千代の富士関を観相学で観る

いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきますが今日は違います。

僕は千代の富士関に会った事はちょっとだけありますし、実物の本人を観た事があります。それゆえ、いつもの観相学よりは確度が高いです。写真や動画、思い出から面相を判断しますがパーフェクトに僕の占断が正しいわけではない事だけはご了承ください。

千代の富士若い頃と、親方になられてからの2枚を用意しました。イケメンでかっこいい事は間違いありませんね。

顔の形の占断

顔の形まずいつも観ていく顔の形ですが、おそらくこの部分はかなり千代の富士関とマッチしている読み方が出来ます。

どの相書にも意志力・根性・気合・負けず嫌い・派手好き・ボスタイプのプラス面が言われている形であります。ただ自分が強すぎる為に周りにきつく当たったり、家族とうまくいかない事も多い。とも書かれています。

額・生え際の占断

額つぎに額は広くて吉相でしょう。出世や成功が見込める形。

髪の毛の生え際は直線タイプとM字の中間、頭が良くリーダー的、しかし融通はきかないというリーディングが出来ます。

額紋は親方になってからの方が解像度のいい写真ですので、三本の紋があるのがきっちりわかり、緩やかなカーブを描いています。これが軽めに円月紋が出ているので、この部分は吉相読み取りとなります。

眉間の占断

眉間ここまではいい部分が多いですが、眉間にたまに凶相の紋が出ている時があります。嫉妬紋ではなく、暴力沙汰や喧嘩っ早いと取られる相ではあるんですが、職業が力士という事もあり、そこは良かったのかもしれません。

眉の占断

眉眉は非常に綺麗なアーチを描いていますが、吉凶併せ持つ眉です。女性であれば完全に大吉相ではあるのですが、男性は女難もありとも言われる眉であります。

綺麗なのと吉相はまた別の話という事ですね。

目の占断

目そして問題はやはり目ですね。目は鋭く野生動物のような眼をしていますし、白目の色も良くありません。かつ上がり目であり、奥二重ですね。非常に警戒心が強く、短気な人が多い。

また彼は実力を兼ね揃えていますので、フルマウント志向と占断出来るでしょう。絶対になめられてはいけない、人に負けてはいけないというマインドの人に多い目ですので、相撲という格闘技の世界だからこそ良かったですが、一般の素人ですと、傷害事件を起こしたり、人を殴ったりする方にも多い相です。

鼻の占断

鼻鼻はわかりやすく吉相ではありますね。お金や成功に恵まれる、またボス気質であるとこの部分も判断します。

口の占断

口口はわかりやすく自信家の口です。このタイプの口元はうまくいっている時はいいですが、一転落ちていくと転がり続けます。

千代の富士の面相のみので占断

九重親方というわけで面相だけで見るならば、努力や根性で乗り切り成功を手にするタイプであるのは間違いなく、負けず嫌いが良い部分にも出るが、その反面、かっとなりやすく、キレたら手が付けられないタイプ。

容赦なく相手をやっつけれる人間ですので、職業がピッタリとあっていたような気がします。内に入れば優しく出来る親分肌のボスタイプ。敵に回せば本当に厄介な相手でしょう。

ステロイド使用の疑惑について

ここまでが面相読み取りですが、観相学ですので、もう一点。よく千代の富士関はステロイドを使用していたか否か、と語られる事があります。

ステロイド使用疑惑の千代の富士観相師から観ると全盛期の筋肉の張り、僧帽筋などを観ると完全ナチュラルであるとは考えにくいと占断します。

脱臼癖もあるとの事ですので、それの治療を含めて、何か使用していたとしてもおかしくはないだろうなぁというあくまで僕個人の意見です。

ポイント

  • 努力や根性で乗り切り成功を手にするタイプであるのは間違いない。
  • 負けず嫌いが良い部分にも出るが、その反面かっとなりやすくキレたら手が付けられないタイプ
  • 「相撲」という職業がピッタリ合っていたと占断できる。

では最後の項目です。

3.千代の富士関から何を学ぶか

千代の富士関の言葉に

千代の富士
今日いい稽古をしたからって明日強くなるわけじゃない。でも、その稽古は2年先、3年先に必ず報われる。自分を信じてやるしかない。大切なのは信念だよ。

という言葉があります。

これは何も相撲だけに限った事ではなく、我々すべてに当てはまる言葉だと思われます。相撲界の中で決して高身長ではない千代の富士関が横綱になるのは並大抵の努力ではなかったでしょう。

僕らも負けないよう、数年後に報われると考えて、今日いい努力をしましょう!

ポイント

  • 彼の言葉から僕らも負けないよう数年後に報われると考えて今日いい努力をしましょう!
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