目次
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はじめに
今日は偉人観相学のコーナーです。任天堂株式会社代表取締役社長だった山内溥氏です。
僕はこの方大好きなんです。元もがゲームっ子でしたので、ファミコンのABボタンが四角いゴムの時からスーファミ、ゲームボーイ等、ほぼ任天堂製品を購入してきた人間なんです。ぶっちゃけバーチャルボーイや、ファミリーベーシックすらも持っているくらい任天堂フリークです。
ガラケー時代は着信音をパルテナの鏡にしていましたしね!それゆえ、逆に占断が狂ってしまわないかが不安です。本来、観相学は「好き」「嫌い」という感情が入る前にその人を観た方が正確に診断出来ますからね。自分の感情入れないように今日は頑張っていきます。
というわけで本日は山内溥さんは何をした方なのか?功績や人生などを振り返ってから、いつものように観相学で観ていきましょう!
リクエストがあったら、横井軍平さん、宮本茂さんも観たいですね。山内溥氏を入れてこのお三方を僕は尊敬しておりますから。山内溥さんがもう何をやったか十分に知っているよ!という方は記事をスキップして、観相学の項目からご覧くださいね。
それでは本日の項目です。
- 山内溥さんは何をされた方なのか?
- 山内溥さんを観相学で観る。
- 山内溥さんから何を学ぶのか?
の三本構成でいきましょう!よろしくお願いいたします。では、まず
1.山内溥さんは何をされた方なのか?
最初は偉人観相学記事定番の山内溥さんの人生を振り返っていきましょう!
生い立ち
山内溥は、1927年11月7日京都府京都市で生まれました。しかし父親である鹿之丞(しかのじょう)は、女性と駆け落ちして失踪してしまい、母親とともに不遇な状態に置かれてしまったのです。
溥の曾祖父(そうそふ)にあたる山内房治郎が、京都市下京区にて合名会社山内任天堂を設立し、花札の製造する事業を展開して経営がうまくいった事から、実は不遇な状態どころか経済的に恵まれて育ちました。 溥が祖父母に囲まれて育ったことで、溥は父親がいないさみしさは感じられなかったと語っております。
このころの日本は、第二次世界大戦の末期という状態で、溥にも徴兵の可能性があったのですが、1945年に終戦を迎えたことで、徴兵による戦死の可能性から難を逃れた格好になりました。数年早く生まれて20歳の状態だったら、海外の戦地へ派遣されていた可能性がありました。
戦後、溥は経済的に恵まれて育ったこともあり、18歳になるころには名門の早稲田大学専門部法律科(法学部)に進学しました。
子会社の社長に就任
しかし、22歳の時に祖父で二代目の山内積良が病に倒れてしまいました。そのため、溥は若くして大学卒業後に合名会社山内任天堂が製造した花札を販売する子会社「株式会社丸福」に就任することとなりました。
ただ溥は、社長就任の条件として「自分以外の山内家の人間に任天堂で働いてほしくない」という趣旨の事柄を亡くなる前の積良に伝え、了承をもらったことを条件に、社長を引き受けたとされているそうです。
単なる口約束ではなく、文書としてそれを残したのかどうかというのは、今となってはわかりません。
山内家の人間、つまり身内を排除した理由として挙げられるのが、「お家騒動」でしょう。戦後すぐの時代、社会的混乱が収まったとは言い切れず、無用な争いを避ける狙いがあったとみられています。
また20代の若造が社長になって面白く思っていない社員がいても不思議ではなく、溥は自分のやりやすい環境を整えるため、自分の意向にそぐわない社員を次々と辞めさせて、「内部基盤」を安定させ、よりよい経営環境を作り出していったのです。
とはいっても、まだ社長になったばかりの溥には誰もが認める「実績」がありませんでした。そのせいか、会社内では労働争議がたえなかったそうです。
日本初のプラスチック製トランプの発売
しかし、その状況を一変させた出来事があります。1953年には溥は、日本初のプラスチック製トランプの開発に成功しました。別名「ナップカード」とも呼ばれ、溥社長主導により開発された最初の革新的製品だったんです。
しかし、一般家庭にはそんな事は関係ありません。プラスチック製トランプはその名の通り、プラスチックで出来ていますから、水や汚れに強いという特徴を持ち、物理的破損がない限り何度でも使用できる面が評価されました。このトランプが子どもたちを中心に支持されていき、売れ行きも好調となりました。
花札は大人の賭け道具という認識があった一方で、トランプは子どもから大人まで幅広く交流できる道具という認識として広まったことが売れ行き好調の要因と言われています。このことが、社長の溥にとって、26歳で初めての大きな功績となったのです。この功績により、会社内で巻き起こった労働争議は次第に沈静化していきました。
キャラクタートランプが大ヒット
さらに1959年には、ウォルトディズニー社と交渉し、ミッキーやミニーなどのキャラクターを入れた「キャラクタートランプ」を発売し空前の大ヒットを起こします。 当時のトランプはスペードやハートなどの幾何学模様が中心で、一言でいえば「ありふれていたもの」ばかりでした。
そこで溥たちは思い切った、他社製品と大きな差別化を図るために、着眼点を変え、新たなトランプを世に送り出したわけです。
これも大きな功績となり、もはや溥に対する社内反対派はその実績からほとんど姿を消していきました。実は任天堂は順風満帆に会社経営がうまくいったわけではありませんでした。 合名会社山内任天堂より、短期間で社名はコロコロ変わり、「株式会社丸福かるた販売」「任天堂かるた株式会社」「任天堂骨牌株式会社」など変更が相次ぎました。
最終的には1963年に、ようやく現在に至る「任天堂株式会社」に落ち着きます。
本社移転や東京支店設置など大きな動きもありました。また任天堂が経営の危機に直面していたことがあります。その要因として、溥はアメリカにいって視察した際に
という趣旨の想いを抱き、多角的経営路線に転換したのです。
多角的経営路線への転換
手始めに、タクシー会社を立ち上げ、それから食品会社も立ち上げました。さらにいろんな業種の会社も立ち上げた結果、それなりに経費がかさみました。僕だったら、急いで経営の多角化をする必要があるのか議論するところですね。
ノウハウ不足もあり、皆さんの予想通り経営はうまくいきませんでした。
1960年代となると戦後復興も進み娯楽が多様化していきます。
任天堂の経営基盤を支えていたトランプの売り上げも落ち込み、経営の多角化の失敗もからんで、溥が率いる任天堂は倒産の危機に直面したのです。
経営の多角化を図り他業種へ進出したものの、結果的に赤字を膨らませるだけに終わってしまいました。任天堂は結局のところ倒産は回避できましたが、大きな失敗を経験したことで、のちに大きな成功へとつながります。
倒産の危機からの脱出
幸か不幸か、任天堂の経営危機を救ったとされる人間が横井軍平。そしてそのジャンルは「おもちゃ」だったんです。
横井は同志社大学工学部電子工学科卒業で、本来は任天堂とは違う大手家電メーカーへの就職を希望していましたが、それが叶わず、任天堂が彼を採用という形で拾ったかっこうです。
任天堂は花札やトランプを販売する企業だったことから、横井の強みを生かす仕事は多くなく、入社後は電気関係の業務を担当していました。
ある日、横井は仕事の合間を縫って格子(こうし)状の伸び縮みするおもちゃを作り遊んでいたところ、溥の目に留まり、社長室へ呼び出され、溥は「これを商品化して見せろ!」という勅命を受けました。横井さんはこの時、「遊んでて怒られる」と思ったみたいですね(笑)
これを商品化してできたのが1966年に発売された「ウルトラハンド」なのです。伸縮自在で物をつかめるように改良が施され、子どものおもちゃとして人気を集め、大ヒットにつながりました。この成功により、溥は横井をおもちゃ商品開発の主任に抜擢します。
横井は、その後も任天堂から多数のおもちゃを世に送り出すこととなります。 逆に言えば、横井軍平が任天堂に入社しなければ、こんにちの任天堂はなかったでしょう。横井が起点となって、任天堂は倒産の危機から脱しました。
こうせんそれから数年後の1970年、横井がメインとなって考察された「光線銃SP」が大ヒットしました。銃口から発する光を当てて撃つというシンプルな物ですが、横井の電気工学の知識が詰まったおもちゃの自信作でした。溥は光線銃SPのヒットからヒントを得たのか「レーザークレー射撃場」を展開しようと規模を広げていきました。
再び倒産の危機からゲーム会社への転換
流れ的に申し分ない事業展開でしたが、この判断が任天堂を再び倒産の危機に直結してしまったのです。
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発したことが要因となって引き起こされた第1次オイルショックの影響を受けたためでした。そのせいで、射撃場の施設建設がうまく行かず、光線銃のブームも去り、任天堂は大赤字を出してしまいます。
しかし、過去の失敗から立ち直った経験があってか、溥は新たな可能性を見いだしていました。 それはアーケードゲームです。
1970年代後半に入って、多くの会社が開発に名乗りを挙げ、有名なところではタイトーが開発に成功した1978年のスペースインベーダーがあります。
溥は「ゲームには先がある」という趣旨の考えに至り、花札・トランプやおもちゃメーカーのイメージ脱却を狙うとともに、ゲームに携わる仕事にシフトしていきます。自社でアーケードゲームを開発しつつ、家庭用ゲームにも軸足をおいて開発していました。
1980年、任天堂は携帯型ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」を発売し、これがメガヒットとなり、少なくとも5000万台が売れ、それまで残っていた負債(レーザークレー射撃場の件など)をすべて完済するに至ったほど会社に利益をもたらしたのです。
横井もゲーム&ウォッチの開発に携わり、メガヒットを喜んだそうです。このメガヒットが、任天堂を花札・トランプの会社という固定概念を根底から覆す結果となり、任天堂はゲーム路線により一層本腰を入れて取り組む要因となりました。
また、同じ年に任天堂はアメリカのニューヨーク州に現地法人「Nintendo of America Inc.」を設立しました。(のちにワシントンに設立した同法人に吸収合併)
それから任天堂は翌年、業務用テレビゲーム機「ドンキーコング」を開発し、こちらも大ヒットします。
短期間でゲーム関連商品の立て続けのヒットにより、任天堂はゲーム業界で一定の地位を確立させたといっても過言ではありません。
任天堂は横井の他に、宮本茂という人材がいたことにより、更なる発展を遂げることとなります。宮本こそ、ドンキーコングを生み出した本人であり、のちに任天堂のイメージそのものとなる「マリオ」を世に送り出すきっかけとなった人物なのです。
ファミコンの発売
ゲームといえば任天堂という固定概念が定着するきっかけとなったのが1983年に家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」、通称ファミコンを発売したことにあります。ゲーム&ウォッチで使用されていた十字キーが使いやすくなり、アーケード版のドンキーコングが家庭でも遊べたことが大ヒットした要因です。
さらにヒットを加速させたのが、ファミリーコンピュータ用ゲームソフト『スーパーマリオブラザーズ』を発売したことがきっかけです。僕もこのゲーム大好きで飽きるまでプレイしていました。
ソフトが売れれば、自然とハード(ファミコン本体)も売れます。ファミコンブームが世間で話題となり、任天堂のゲーム知名度は確固たるものとなりました。
溥はファミコンの開発を後押し、横井を筆頭に尽力した結果、これまで以上の大成功を納めました。これを機に、溥はアーケードゲームよりも家庭用ゲームの開発に力を注ぐようになりました。溥は家庭用ゲームとはいえ、自宅以外の場所でも遊べればと思っていました。横井にそのゲームの完成を厳命したそうです。
そして1989年に携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」が発売されます。ゲームボーイは持ち運んで外で遊ぶことができた斬新さが評価され、大ヒットしました。細かい問題を抱えつつも、任天堂の勢いはこれで終わりませんでした。
1990年には家庭用テレビゲーム機「スーパーファミコン」を発売、その後1996年に「NINTENDO64」を発売、2004年に任天堂は携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売しました。 溥が存命時の最大ヒット商品となりました。現在進行形ではありますが、ニンテンドーDSの総販売台数は約1億5000万台と、任天堂最大のヒットといえる売り上げを記録しています。(ソフトは任天堂開発外を含め約9億5000万本)
2002年に溥は、社長の肩書きを岩田聡(さとる)に譲渡し、取締役相談役に落ち着き、2005年には役職を相談役のみとして、最前線から一歩引きました。
2013年、溥は85歳でこの世を去りました。
任天堂の社名の由来は「人生一寸先が闇、運は天に任せ、与えられた仕事に全力で取り組む」というものでした。つまり、人の力だけではどうにもならないことは最終的に運を天に任せるという解釈です。
ワンマン経営を批評するつもりはありませんが、その時代によって求められる発想がワンマン経営の環境下でなければ出てこなかったとすれば、現在に至る任天堂の発展はなかったかもしれません。
ポイント
- 玩具メーカーの任天堂株式会社 元代表取締役社長。
- 電子ゲームによって任天堂を世界的な企業に押し上げた。
長くなってしまいましたが、次の項目にいきましょう。
2.山内溥さんを観相学で観る。
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。
観相学で観る前の注意点
僕は山内溥氏に会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。
それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。
はい、この2枚から観ていきましょう。
ズバリ犯罪者より尊敬している人間の方が観るの困りますね。若い時のメガネかけてない画質の良い写真がこの一枚くらいしかありませんでした。あとはほとんど年老いてからの写真ばかりでしたね。この2枚を使いますが、顔での占断はまだやりやすい方であります。
というのもわかりやすい部分が多いですね。あだ名は「組長」と呼ばれており、コワモテと一般的には言われていますが、観相師からすると全然そんな事はありません。色付きの眼鏡のせいもあるんでしょう。
顔型の診断
顔の形ももちろん良しです、本来は頭部の、特に前頭部を触って確認したかったですね。長年、観相師を職業にしているとだいたいこの顔のパターンの人はこうだろう的な予測が出来るんですが、山内さんは長方形型の顔の形、そして前頭部が少しだけへこみがあるんではないか、と予測します。
名声や金運にも恵まれる成功者、かつ現実主義者、しっかりと今の現状を観れる人間で、著名経営者ですが、政治家などでも成功できると言われる形です。
額・生え際の診断
例によって額や生え際もまっすぐですので、ここら辺も同じ、頑固、人の信用を得る、頭がいい、そしてこの部分も無敵のリアリストです。
眉間・眉の診断
歳を取ってからの写真でも額紋、額の紋が出ていません。ここまではいいのですが、眉間の紋にはわかりやすい嫉妬紋が出ていますね。
若い時は無いのですが、この写真だけかもしれません。ただ年老いてからは全ての写真に観られました。猜疑心などが強いタイプ、人の言う事よりも自分を信じています。
眉は形もよく濃い感じで、頭の良さ、天才系ですね。しかしその部分がわかってもらえない場合はトラブルも起きるので、身内や家族と揉めることもあると言われています。天才はある意味孤独なんですよね。
目の診断
目は映っている写真によっては軽い斜視が入ってるのかとも思ったのですが、動画で観ると動きは普通でした。ただ映像が悪く色眼鏡越しなので完璧な判断は出来ていません。色眼鏡の人は山内さんだけでなく、どんな人でももちろん眼の占断は難しくなります。
若い時の写真で観ると、目尻の下がり、下まぶたの下がりなどは良し、人に慕われるタイプとも読めますが、少しだけ凶相よりの苦労するタイプの眼とも読めます。少し目の判定は難しいですね。
鼻・耳・人中の診断
鼻の作りは綺麗で吉相ですが、鼻の穴の向きでいうと散財もされるので、一歩間違っていれば危なかったかもしれません。
耳も内輪が大きく出てるので、吉相、自分で前に進めるタイプであり、
人中は少し長めなので、人よりもかなり若い段階で多くの事を経験する。いわば「おませさん」というヤツですね。
唇の診断
唇は若い時から薄いので冷静で理論的、歳を取るにつれて良くなったイメージがあります。写真だけで観ていると。
山内溥氏の面相での診断
山内溥さんを顔だけで占断しますと、頭が良く仕事が出来るが超現実派。
人事でいうならば仕事が出来る人間を優先。合理的かつ理論的な非オカルト派人間である。
それゆえ、家庭や家族を犠牲にしてでも、ビジネスが絶対だ!タイプでもあり、成功したから良かったものの、彼の言う通り、「運」というモノが味方したんではないでしょうか。とにかく一目で観れるのは切れ者というところですね。
ポイント
- 一目で観れるのは切れ者という点 頭が良く仕事が出来る超現実派。
- 家庭や家族を犠牲にしてでもビジネスを最優先するタイプ。
では最後の項目です。
3.山内溥さんから何を学ぶのか?
山内さんは年老いてからでも、発言がすべてスマートでした。本当にリアルにご自分の会社や世の中をすごく正確に読み取っていたパーフェクトアナリストのイメージが僕の中ではあります。
これが大事で、自分の現在の状況を把握する、そして迫りくる未来を予想してどう動くかを考える。
これは任天堂という大きな会社だけでなく、僕らの人生にも大きく活かせると思います。僕らも山内溥さんを見習ってリアルに生きていきましょう!
ポイント
- 山内さんは自社や世の中を正確に読み取っていたパーフェクトアナリスト。
- 自分の現在の状況を把握し、迫りくる未来を予想してどう動くかを考える。
- これは任天堂という大きな会社に限らず、僕らの人生にも大きく活かせるでしょう!!