目次
動画でも解説しております
はじめに
今日は今まででもダントツで思い入れがあります人物の偉人観相学でございます。それゆえ、僕から取っても試練の大一番です。
猛烈に尊敬をしておりますし、かなり色んな前情報やエピソードなんかも多く知っています人物、それだけにきちんとフラットな占断が出来るかどうかというのが問題です。
その人物の名は「手塚治虫」先生です。
僕は大げさではなく、話を盛るわけでもなく、宝塚市にあります手塚治虫記念館には20回は訪問しています。まぁ比較的近いという事もあるんですが。例のウィルスが蔓延してからは行けてませんが、昔はちょくちょく行ってました。僕のパワースポットでもあります。元気がない時などに、ふらっと一人で訪れていました。十三のナナゲイと共に僕を支えてくれる聖地です。
そんな手塚治虫先生をきちんと観れるのか、僕にとってもチャレンジ的な記事でもありますが、よろしければお付き合いください。
では、今日は僕の大好きな手塚治虫先生が何をしたのか、からいつものように話していきますので、観相学の部分だけ観たいという読者様はその項目まで記事をスキップしてください。
手塚先生はかなり多くの事を成し遂げているので、細かい部分まで入れるとかなり長くなってしまいますので、出来るだけはしょってはしょって解説させて頂きます。それでは本日の項目です。
- 手塚治虫先生はどのような人生を歩んだか
- 手塚治虫先生を観相学で観る
- 手塚治虫先生から何を学ぶか
の三項目でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず、
1.手塚治虫先生はどのような人生を歩んだか
では、まず手塚先生の人生から語っていきましょう。
戦後、ストーリー漫画の第一人者とされ、「漫画の神様」と称えられた手塚先生ですが、決して順風満帆な人生ではありませんでした。時に挫折し、時に大きな変化を余儀なくされながら、大きな名声を手に入れたわけです。
また石ノ森章太郎先生や藤子不二雄先生、横山光輝先生などにも大きな影響を与えました。そんな手塚先生の人生をひも解いていきましょう。
ペンネームの由来
手塚先生の本名は「手塚治」といいますが、なぜペンネームに「虫」が付いたのかというと、小学生の頃に昆虫が好きでのめり込み、オサムシという昆虫にちなんだものだそうです。オサムシは色彩や彫刻が美しいため、収集家にとっては大変に人気のある虫です。
生い立ち
手塚先生が生まれたのは昭和3年(1928年)のこと。手塚先生と漫画との出会いも幼少期でした。
漫画や「世界文学全集」などの書籍が父の本棚に揃っていて、いつでも読むことができましたし、父母ともに漫画が好きで、絵本とともによく読み聞かせてくれたそうです。
手塚先生自らも眠れない時などに好んでパラパラ漫画を描いていました。
13歳の頃には自分で昆虫図鑑を作るほどの入れ込みようで、赤い色を再現するために自分の指を切って血を出し、それを絵具代わりにするほど。ちょうどこの頃から「手塚治虫」というペンネームを用い始めています。
昭和16年(1941年)、府立北野中学校(現在の北野高校)に進学した手塚先生でしたが、すでに戦争の足音は身近に迫っていました。中学を1年短縮して卒業し、次いで大阪帝国大学(現在の大阪大学)に付属された医学専門部へ入学します。
程なくして終戦となって平和な時代を迎えますが、手塚先生は在学中に多くの漫画原稿を描いており、実に3千枚。
四コマで漫画家デビュー
その中から新聞社に原稿を送るなどしていたのですが、ある時、子供向けの「少国民新聞」に連載をするチャンスを得ます。それが漫画家デビュー作となった「マアチャンの日記帳」という4コマ漫画でした。
ところが
思い悩んだ手塚先生は、信頼する母に相談したといいます。すると母は「あなたが本当にやりたいことをやりなさい」と言ってくれたそうです。こうして吹っ切れた手塚先生は漫画家として成功することを決意しました。
そんな手塚先生が世間から認められるきっかけとなったのが、酒井七馬(さかいしちま)原作の「新宝島」という長編漫画です。昭和22年(1947年)に刊行されるや大人気を博し、冒険活劇を大胆な構図で描いた作風は、敗戦直後で気落ちしていた多くの日本人を勇気づけたそうです。
この成功に乗った手塚先生は、「火星博士」「怪人コロンコ博士」「ロストワールド」といったSF漫画作品を次々に送り出し、地元大阪で大きな人気を得ました。
学業と漫画家の二足の草鞋を履き、多忙を極めた手塚先生でしたが、東京へ進出して雑誌に漫画を描くことを望んでいました。
当時、手塚先生が描いていた漫画は赤本と呼ばれ、書店ではなく駄菓子屋や露店で販売される代物でした。
と考えていたのでしょう。
東京へ進出し名作を生み出す
やがて思いは現実のものとなります。昭和25年(1950年)、新しく創刊された雑誌「少年少女漫画と読み物」への連載が決まり、同年には「漫画少年」で大作「ジャングル大帝」の連載が始まりました。それでも大学はやめずにいたため、翌年に医学専門部を卒業。すでに人気漫画家になったこともあり、いよいよ東京へ進出してチャレンジを始めようとしたわけです。
昭和27年(1952年)、のちに漫画・アニメの金字塔となる「鉄腕アトム」の連載を開始。
上京した手塚先生は当初下宿生活を送っていましたが、頻繁に編集者が出入りするためクレームが付き、新築になったばかりのトキワ荘へ入居します。翌年になると「少女クラブ」誌上で「リボンの騎士」の連載を開始。この作品が少女漫画への初めてのチャレンジとなり、手塚先生の代表作の一つとなりました。
昭和29年(1954年)からは「漫画少年」に「火の鳥」が連載されます。この作品は手塚先生が生涯を賭けた大作となり、幾度も中断はあったものの、まさにライフワークとなりました。
いっぽうで劇画風の作品にも挑戦しています。折しも重厚でシリアスな劇画タッチの漫画が人気を博すようになり、手塚先生が描く子供向けの漫画は次第に押されるようになりました。そこで手塚先生も新しい試みとして「黄金のトランク」という作品を描き、劇画の手法を学ぶきっかけを掴んでいます。
やがて漫画が多く掲載されていた月刊誌が姿を消すようになり、代わって週刊漫画誌が新たに登場しました。昭和34年(1959年)には、現在も続く「少年マガジン」「少年サンデー」が相次いで創刊しています。
そんな中、手塚先生の仕事は多忙を極め、締め切りに追われる日々となっていきました。
同年、幼馴染の岡田悦子さんと結婚して宝塚ホテルで挙式するのですが、原稿が遅れて部屋に缶詰となり、とうとう式に遅刻したというエピソードがあります。
アニメーションへの挑戦と挫折
昭和35年(1960年)、結婚を機にトキワ荘を出た手塚先生は東京練馬に自宅を新築。不退転の決意で腰を据えると、またしても新しいチャレンジを始めようとします。それがアニメーションへの挑戦でした。
幼い頃からディズニー映画に慣れ親しんだ手塚先生は、今度は自分で新しいアニメーションを作りたいと決めたわけです。昭和37年(1962年)に虫プロダクション(当時は手塚治虫プロダクション動画部)を設立し、翌年にはさっそく30分間のテレビ作品「鉄腕アトム」を製作しました。放映は4年の長きにわたって続きましたが、最高視聴率40%を記録するほどの人気作となります。
当時としては破格の安さで製作を請け負ったそうなのですが、アニメーションを世間に定着させるための苦肉の策だったといいます。製作費が安いこともあってテレビ局が飛びつき、スポンサーも付くようになりました。
また少ないスタッフで毎週の放送を可能にするため、リミテッドアニメという手法が随所に取られます。例えばアトムの飛行シーンを動画にする際、アトムを動かさずに背景だけを横に動かすという方法ですね。そうすることでセル画の枚数を必要最小限にしていました。
こうしてアニメーション分野で成功を遂げた虫プロですが、やがて下降線をたどることになりました。1970年代を迎える以前、すでに手塚先生の漫画には人気の陰りが見え始め、最盛期に550人を数えた虫プロも徐々に経営不振に陥っていきます。
昭和48年(1973年)には自らが経営者となっていた虫プロが倒産。手塚先生の元に残されたのは莫大な借金だけでした。
と、手塚先生は精神的に追い詰められ、悲観し、絶望しました。
後年になって手塚先生はこの時期のことを「冬の時代」だと呼び、まさに大きな挫折を味わったわけです。
後期作品の中での最大のヒット作誕生
「おしまい」だと思ったのは手塚先生本人だけではありません。世間からも「手塚治虫の時代は終わった」と思われていました。
手塚先生を担当していた編集長は「せめて手塚漫画の最期を看取ってやろう」と思い、ある作品を依頼します。それが「ブラック・ジャック」でした。半ば自暴自棄になっていた手塚先生は、人気がなければすぐに打ち切れるように毎回読み切りの手法を取ったそうです。
ところが蓋を開けてみれば、連載漫画が主流だったこの時代、それは新鮮なものとして読者に受け入れられました。手塚先生が導き出した連載短編漫画は、彼の後期作品の中で最大のヒット作となったのです。
そして翌年、SFと伝奇ミステリーの集大成ともいえる「三つ目がとおる」が連載され、その復活を印象付けました。手塚先生は
そう語っています。
人気が再燃
昭和52年(1977年)になると、再び人気に火が付くとともに手塚の創作意欲も高まりました。長く中断していた「火の鳥」の連載が再開され、この年には6本もの連載を同時進行で描き上げています。
昭和63年(1988年)、体調不良を訴えて入院しますが、やがてスキルス性胃癌と判明。手術のうえ胃の多くを切除するほどの手術を受けています。2ヶ月ののちに退院しますが、創作意欲はまったく衰えませんでした。
「グリンゴ」「ネオ・ファウスト」といった作品を同時に連載しており、体調が良い時は病院のベッドの上でも描き続けていたそうです。
ところが切除したはずの癌は転移し、着実に手塚先生の体を蝕んでいました。周囲の人間は手塚先生に癌であることを伝えず、手塚先生自身も周囲に問うことはありません。
同年11月に中国の上海へ渡ってアニメーションフェスティバルに参加しますが、やはり無理したことが祟ったのか、帰国と同時に再入院します。
やがて昏睡状態に陥った手塚先生は、意識が戻るたびに「鉛筆をくれ」といって漫画を描こうとしたそうです。まさに亡くなる寸前まで自分のライフワークをやり遂げたかったのでしょう。
平成元年(1989年)2月、手塚先生は60年という生涯を閉じました。最後の言葉は
だったと伝わっています。
ポイント
- 戦後ストーリー漫画の第一人者とされ「漫画の神様」と称えられた人物。
- 設立した会社が倒産し借金を抱えるなど大きな挫折を経験したが、漫画やアニメの金字塔となった「鉄腕アトム」、生涯をかけた大作「火の鳥」、連載短編作品「ブラックジャック」など様々な作品を生み出した。
それでは次の項目です。
2.手塚治虫先生を観相学で観る
いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。
観相学で観る前の注意点
僕は手塚治虫先生に会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。
それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。
意外と困ったのが良い写真が無いのです。だいたい帽子を被っており、帽子を被ってない写真探すの大変でした。またメガネは100%です。この偉人観相学はメガネの人多いんですよ。ギリギリあった写真でいきましょう。
顔の形の占断
顔の形は若い時代の方がいいでしょう。長方形型ですが、男性なので、この部分はズバリ吉相と言えます。女性はダメな場合もあるんですが、男の人ですと、名声・成功・出世などを意味します。
額の占断
額の部分も帽子をかぶっていない写真を見つけたお陰で診断出来ますが、ここはわかりやすく広いおでこですね。無論、吉相。頭脳明晰、非常に賢いと読みますが、この辺は当たり前かもしれませんね。北野高校から阪大行ってるので、わざわざ額で読み取る必要はありません(笑)
生え際は真正面の写真ではないので非常に読み取り辛くはなるんですが、一応、直線系ですので、真面目や頑固。悪く言うならばまったく融通か利かないタイプでございます。
印堂の占断
帽子を被っておられますので、額のしわ、額紋は観ることが出来ないので飛ばしますが、手塚先生はメガネのせいか、そうでないのか印堂には紋が見えます。この写真では異常に浮き出ておりますが、他の写真で確認しても出ているのがありました。
真ん中の一本はこれこそ、手塚先生ならでは、というアーティストや繊細な方に多い紋なのですが、眉にくっつている2本のしわは嫉妬紋といって、猜疑心の強さや人に嫉妬する人に出来ると言われている紋であります。この辺りは凶と読むしかありません。
眉の占断
眉もメガネに阻まれますが、これは目立った吉相であります。眉の読みは一般の方には非常に難しいのですが、目の幅内かちょっとだけ出る感じで、眉の終わり辺りも散らばる感じです。本来財運良しのはずなんですが、虫プロ倒産借金抱えているので当てまりませんね。使い過ぎたら吉相でもダメなのかもしれません。
メガネで隠れている為、山根・田宅などはスルーします。
山根の読み方について
あ、ちなみに前に質問ありましたが、山根はさんこん・やまね、どちらでもいいです。ラジオで、アンガールズ田中の言い方で、「やーまーねー」と発言された方、そちらでもOKです。本来は読み方や顔の場所の細かい名称を覚えるよりも、この顔はこういう人だ、という実践方法を勉強してください。僕も全然使わない部分の顔のパーツ読み一切覚えてませんよ(笑)
目の占断
目もおそらくは度がかなり入ってるレンズなのでサイズ感などは観れませんが、非常にこだわりが強く、その方向にいけば成功するが、そうじゃない場合もある吉凶入り混じりです。執着を捨てられるかどうか、というリーディングですが、このメガネ周りは物理的に邪魔されるので、確度が更に下がっています、すいません。
鼻・耳の占断
鼻と耳はもうわかりやす過ぎるくらいの良いパーツです。しかも二つとも、財運や金運良しとリーディングするんですが、、、お金を使い過ぎるとそれも関係なくなってしまうんでしょうか。誰がどう読み取ってもこの部分はお金は良いと観るでしょう。
鼻はかなりMAXレベルでの良い鼻です。むしろね、昔の相書では女性へのアドバイスとして、こんな鼻を持つ男性と結婚しなさい、と書かれているのがあるくらいですからね。
人中の占断
人中は特に何の問題もなし、可もなく不可もなく、この部分で取れる情報はありませんが、ほうれい線は左右非対称ですので、自分の気持ちがわからなくなったり、情緒不安定にもなる事があると言われています。
口元の占断
口元は案外、手塚先生を観るにはわかりやすい、黙って我慢できる、一つの事を続けられるというピッタリあった特徴になっております。
手塚治虫氏の面相のみでの占断
手塚先生を僕ごときが勝手に顔のみで占断させて頂きますと、頭がよく、自分の才能をわかっており、それを黙々と続けられるタイプではあるが、嫉妬心や情緒が安定しない時もあるくらいの繊細さを持つ。本来なら大金持ちになってないとおかしな財運・金運に長けた相です。借金まみれになるとはこの面相からは一切読めません。
とあくまでも僕個人の勝手な意見として聞いてください。
ポイント
- 頭がよく自分の才能をわかっておりそれを黙々と続けられるタイプではあるが、嫉妬心や情緒が安定しない時もあるくらい繊細さを持つ。
最後の項目です。
3.手塚治虫先生から何を学ぶか
生前、手塚先生が漫画を描くにあたって信条としたのは、過去の戦争体験にあったそうです。
と常々語っていました。
またプロであろうが、アマであろうが、ベテランであろうが、基本的人権を茶化さないことが大切だと述べています。どんなに痛烈で皮肉な描写をしてもいいが、
- 戦争や災害の犠牲者をからかうこと
- 特定の職業を見下すこと
- 民族、国民、そして大衆を馬鹿にすること
これらは漫画家として絶対に避けるべきだと主張しました。
手塚先生のこうした思いは、「ブッダ」や「アドルフに告ぐ」といった名作によく現れていると言えるでしょう。
また手塚先生の影響を大きく受けた漫画家・映画監督・脚本家たちは数えきれないほどいます。
そういった人々が現在の漫画界・アニメ業界を支えていると言っても過言ではありません。手塚先生が育て、培った精神は確かに今でも息づいているわけですね。
僕らも手塚先生を見習っていかなくてはいけません。最近行けてないので、また手塚治虫記念館に行ってきます。
ポイント
- プロ・アマ・ベテランであろうが基本的人権を茶化さないことが大切。
- 「戦争や災害の犠牲者をからかうこと」「特定の職業を見下すこと」「民族国民そして大衆を馬鹿にすること」は漫画家として絶対に避けるべきという手塚治虫先生の主張を見習っていきましょう!