渋沢栄一

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はじめに

本日も偉人観相学のコーナーですが、知名度がいずれは一気にあがる人でしょう。

そして今現在、新札の発表まではほとんどの人がそこまで知らなかった偉人ではないでしょうか?

新一万円札渋沢栄一2024年度発行予定の一万円の顔となる「渋沢栄一」氏です。今はまだ流通していないので、皆気にしていませんが、いずれは超ヒーローになるんでしょう。

諭吉ホステスさんの鉄板トーク、「彼氏いる?好きな人いる?」とお客さんからの質問への返答の「いるよ。福沢諭吉」これが数年後には「渋沢栄一」になっているでしょうからね。僕の知り合いのママさんもペットのワンチャンに「諭吉」と名付けています。

それがいいかどうかはわかりませんが、日本で一番愛される男性が福沢諭吉から渋沢栄一に世代交代するので、未来で必ず男女共から一番愛される男性になる渋沢栄一はどんな人生を送ったのか?一万円札に選ばれるほどの偉人なのか、を観相学で観てみましょう。

観相学のコーナーだけを読みたい!というせっかちな方はそこまで記事をスキップしてください。本日も最後までお付き合いよろしくお願いいたします。

実際、僕も新札に選ばれるまで名前を小耳に挟んだことがあるくらいの人物で、どんな人が今でも一切知りません。そもそも、一万円札に選ばれるのならば、もっと有名な人の方がいいのでは?という論争も観ました。新札発表の時期に。

坂本龍一坂本龍馬とかもっと知名度あるだろう。でも皆が知っているあの坂本龍馬の写真は実は本人ではないから。と都市伝説的な話も聞きました。

どっかの番組ではお札に選ばれるのはフリーメイソンからだ、と常に言ってる方がいらっしゃいますが、その辺は僕からしたらどうでもいいので、今日は何をした人物なのかから話していきます。それでは本日の項目です。

  1. 渋沢栄一氏はどのような人生を歩んだか
  2. 渋沢栄一氏を観相学で観る
  3. 渋沢栄一氏から何を学ぶか

の三項目でいきましょう。よろしくお願いいたします。ではまず、

1.渋沢栄一氏はどのような人生を歩んだか

大河ドラマ「晴天を衝け」大河ドラマの主人公と言った方が早いかも知れませんね。幕末・明治から昭和までの激動の時代を生き抜き、「日本資本主義の父」と呼ばれた栄一の生涯をひも解いていきましょう。

生い立ち

渋沢栄一栄一は天保11年(1840年)、現在の埼玉県深谷市にあたる血洗島(ちあらいじま)で生まれました。渋沢家は半農半商の家であり、農業に従事するかたわら藍の製造や、養蚕(ようさん)などを手掛けておりました。

寺子屋渋沢家は比較的裕福だったため、栄一は幼い頃から勉学に励んでおり、儒学・史学・剣術などを学んでいました。
やがて家業の手伝いをするようになり、父に代わって藍の仕入れや販売も手掛けるようになります。

尊王攘夷に目覚める

悔しそうな男性ところが17歳の時、地元の岡部藩の代官から理不尽な仕打ちを受けたことをきっかけに、社会の在り方や制度について疑問を持つようになりました。そしていつしか「世の中を変えたい」と漠然と考えるようになりました。

父に懇願して江戸へ出た栄一は、北辰一刀流の道場に入門。そこで多くの若者と交流するうちに尊王攘夷に目覚めることになりました。

お城そして文久3年(1863年)、高崎城を乗っ取る計画を練り、さらに兵を集めて横浜の外国人居留地を焼き討ちしようと考えます。

尾高長七郎ところがこの計画に反対した者がいました。栄一のいとこにあたる尾高長七郎です。長七郎は尊王攘夷派の志士として活動していましたが、武力による攘夷には限界があると感じていました。

懸命な説得を受けた栄一らは挙兵を断念。計画は水泡に帰しました。そこで栄一は京都へ向かい、攘夷派の志士たちと活動を継続しようと考えました。

一橋家の財政を改善させる

平岡円四郎栄一たちが頼ったのが、平岡円四郎でした。平岡は京都に滞在しており、一橋家に仕えるよう勧めます。平岡は、栄一が優秀で気骨のある人物だと見抜いていたため、白羽の矢を立てたわけです。栄一は勧めを受け入れました。

もちろん新参者ですから、栄一たちは低い身分からスタートします。しかし持ち前の真面目さ、粘り強さをもって仕事をこなし、周囲から信頼されるようになりました。

慶喜帳簿栄一は、一橋家の財政改善を慶喜に提案しました。やり方や工夫次第で火の車だった台所事情を好転できると考えたわけです。これによって一橋家の財政が大きく好転したのは言うまでもありません。

事業の安定を見届けた栄一はようやく京都へ戻りますが、時代は大きく変革しようとしていました。

フランスそんな時、栄一にとって思いがけない話が持ち上がります。「フランスのパリで開かれる万国博覧会に行ってみないか?」というものでした。もちろん栄一は喜んでこれを引き受けました。探求心や好奇心が旺盛な彼にとって断る理由などありません。慶応3年(1867年)、フランスへ渡った栄一は皇帝ナポレオン3世に謁見し、海外の外交儀礼に触れました。

大政奉還

大政奉還いっぽう日本では大きく政治状況が変化を迎えます。慶喜が政権を天皇へ返上しました。この大政奉還によって幕府は消失し、慶喜もまた有力な一大名に過ぎなくなります。さらに鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、慶喜が水戸へ隠居したことも知らされます。さらに慶喜は水戸を離れて静岡の大名となっていました。

商法会議所の設立と新たな役職

商工会議所栄一はヨーロッパで学んだことを静岡の地で生かすことを考えます。栄一は貸付金を元手に商法会議所を設立することを提案して認められます。

やがて商法会議所は銀行業務と物産販売を兼ねるようになり、地元の商人たちに参加を促したことで莫大な利益を上げたといいます。栄一は見事に引き継ぎや経理業務をこなし、新政府から認められるようになります。

大隈重信明治2年10月、再び東京へ召還された栄一は、民部省の租税正(そぜいのしょう)という役職に任命されました。静岡に骨を埋める覚悟だったものの、大隈重信らの説得もあって民部省に出仕することになります。

やがて部署の長となった栄一は、新しい国の制度を作ることに邁進しました。日本で初めて伝票処理や簿記を導入したのも栄一の実績です。

藩札新政府が廃藩置県を打ち出すと、それまで流通していた藩札(はんさつ)がなくなって新しい貨幣へと切り替わります。そこで栄一は額面に対する政府の買取り額をあらかじめ定め、発行から年月が経過した藩札は廃棄するといった制度を定め、未然に混乱を防ぎました。

実業家への道

やがて栄一は実業家への道を歩みだします。

大久保利通や大隈重信折しも予算編成をめぐって大久保利通大隈重信と対立したこともあって大蔵省を辞職。日本の産業育成のために身を投げうつ覚悟を決めました。

まず栄一が進めたのは教育機関の設立です。商業に従事する者の教育水準を高め、社会的な地位を向上させようという目的でした。

一橋大学資金を援助して興した商法講習所は、やがて一橋大学の前身となります。また栄一は女子教育の必要性も認識しており、日本女子大学の創立にも関わっていました

銀行そして銀行をはじめとした金融業の興隆にも尽力しています。自らが制度を推し進めた第一国立銀行の頭取となり、やがて日本各地に地方銀行が設立されるようになったのも栄一の功績です。産業を振興させるには金が必要ですから、銀行が資金援助の役割を担います。まさに事業と金融とは切っても切り離せない関係を構築したわけです。

栄一が関わったのは、もちろん金融だけではありません、国の根幹というべき産業そのものも後押ししました。戦前には日本の主力産業だった繊維や紡績業の興隆に尽力し、さらに製紙業の創設にも関わります。

王子製紙当時は質の高い紙を生産できなかったため、紙幣の偽造防止のために製紙会社を興しました。これがのちの王子製紙となります。栄一はこの他にも多種多様な企業の設立や運営に関わり、その数は500以上にのぼるとも言われており、まさに「日本資本主義の父」と呼ぶにふさわしい存在でした。

譲る人しかし栄一がこれだけ多くの企業や産業に関わったとしても、それは決して私利私欲のためではありません。三井や三菱のような財閥をあえて作らず、滅私奉公のつもりで近代日本のために身を捧げたわけです。自分が進めている事業を、他の人がやりたいと希望すれば、快く譲ったそうですし、相談してくる人に対しては親身になってアドバイスをしたそうです。

そんな栄一ですから、人が困っていることや苦しんでいることに、見て見ぬふりができませんでした。

井上馨かつて尊王攘夷に傾倒し、日本の行く末を案じたこともある栄一でしたが、不思議と政治とは縁がなかったようです。かつて大蔵省時代に上司だった井上馨から、大蔵大臣への就任を打診されるものの断り、さらに伊藤博文が立憲政友会を立ち上げた際、入党を勧められたのですが、これも断っています。

栄一は実業家として成功するいっぽう、慶喜から受けた旧恩も忘れてはいません。静岡の近くを通りかかるたびに会いに行き、その身を案じています。

晩年の渋沢栄一

昭和6年(1931年)、渋沢栄一は92歳でこの世を去りました。

ちょうど満州事変が起こり、日本を取り巻く情勢が不穏になってきた時期です。その死の数ヶ月前、中国大陸で大規模な水害が起こって多くの人々が被災しました。すでに体調が悪化していた栄一は、ラジオの前に立って義援金を呼び掛けたといいます。

満州事変そして集まった募金で支援物資を購入し、被災地へ持ち込もうとしたのですが、そこで起こったのが日本陸軍の暴走による満州事変でした。中国側の国民党政府は「故意に災害を狙って日本軍が満州で行動に出たものだ」と反発します。またせっかく準備した支援物資の受取りすら拒否されました。栄一は大きく落胆し、やがて体調を崩していきます。

栄一は亡くなる寸前まで世界平和について気に掛けており、無謀な戦争へ突き進もうとする日本の在りようを懸念していたそうです。

ここまでが渋沢栄一氏の人生でした。

ポイント

  • 明治~昭和期にかけて活躍した日本の実業家で近代日本資本主義の指導者。
  • 新政府から民部省長と任命され会計·簿記知識の普及に努める。
  • 教育機関の設立·起業支援に奔走し死の寸前まで世界平和のために奔走した。

次の項目です。

2.渋沢栄一氏を観相学で観る

いつもと同じく観相学で観る前の注意点を話しておきます。

観相学で観る前の注意点

僕は渋沢栄一氏に会った事もありませんし、実物の本人を見たこともございません。それゆえ、普段僕が直接会って占断する人間のよくてせいぜい7~8割くらいの確度に思っててください。

注意事項:画像のみで観ると確度は下がります。ご了承ください。写真や動画のみから面相を判断しますので、通常観相学と異なり、かなり信憑性が下がってしまう事だけはご了承ください。

っていうかさすがに写真古過ぎますね(笑)まぁたまにはこんなのもいいでしょう。若い時の方の写真で見ると意外にイケメンかもしれません。この時代ではどういう顔が流行りだったかはわかりませんが。

顔型の占断

顔の形まずはやっぱり顔の形から観ていくのがわかりやすいでしょう。若い時の顔で観ていますが、非常に観辛く、顔の線などは見えませんがおそらくは頬骨・観骨もあり、名士の相と言われる顔型ですね。

非常に意志が強く、負けず嫌い、目的達成能力が非常に高いと読みます。少々の事ではへこたれない、何が何でもやり切るでしょう。

額・生え際の占断

額続いて額、写真が古過ぎるゆえ、額紋が観れないのは仕方がないので、広さや生え際だけ観ていきましょう。額は非常に広くていいですね。かなりの吉相でございます。

そして髪の毛の生え際は額が広すぎて、円を描いているように一派の方は観てしまうかもしれませんが、これは直線系です。出来るだけ面相を読むときは生え際の中心付近をご覧ください。こちらは頑固・意志が強い、曲がった事を嫌うなどという診断でよろしいでしょう。

融通が利かないとも言えますので、案外周りの人は大変だったりもしますが。

眉・山根の占断

眉そして眉、この写真だとかなり読みにくいですね。左眉、皆さんから観て右側の眉の形が非常に特徴的で変わっているんですが、この写真だけなのかもしれません。でも若い方はそうは観れないので、思いつくのは3パターンくらいなんですが、一万円札になるので一番良いので取ってみましょうか、せっかくなので。若くして成功を手に入れる、財運に恵まれる、と読みましょう。しかしこの場合、毛のそろいが悪くなると、人生が悪変すると言われている相です。

山根実は観る写真によっては山根の横線が入ってるんです。一枚の方は渋沢栄一をかたどった人形なんですが、ばっちり横の紋を入れられています。

この紋は色欲での失敗を意味する事が多い。性欲が強めとも読むんですが、これは紋が入ってるかどうか、写真によって違うので謎です。一応、面相勉強している人は覚えててください。

Instagramに来ていた質問ちょうどInstagramで「山根に傷跡があるのですが」という質問が来てました。この傷跡は相や紋と違うので安心してください。傷が紋になるのなら、吉相になる為になんぼでも自分で傷を付ければいいって事になりますからね。一切関係ございません。

目の占断

目目の読みとり、この人は非常にむずかしいです。無論、写真のせいでもありますが。片側はひょっとしたら大吉相、目が細い上に黒目が非常に大きい目、周囲の人から認められて大成功間違いなしです。

写真によっては少し雄雌眼なところも見えます。

雌雄眼とは?

左右の大きさの違う目のこと。

渋沢栄一氏の雄雌眼ですと忍耐や我慢が出来て、物事を達成すると読めるでしょう。この部分だけは観る画像によってちょっとずつ違うので、判断が他の箇所よりも曖昧です。が、観える中で一番いい読み方で取ってみました。

鼻の占断

鼻続いて鼻ですが、わかりやすいくらいの吉相ですね。誰が観てもわかるくらいのボス気質・財運・金運。要するに仕事も出来てお金も入ってくるという判定でOKです。

耳の占断

耳耳も大きい垂珠、しかも外に広がっているので、誰が観てもわかるレベルの吉相。財運・金良しと観るのがポピュラーです。

人中・ほうれい線の占断

人中・ほうれい線人中やほうれい線は白黒写真でもハッキリ見えていますので良かったです。人中はこれだけはっきりくっきりしているのでいいですね。

きっちりした性格、固いととりましょう。ほうれい線ははっきりと濃く口角にくっついているので、健康に気を付けないといけない。その部分を守れると大丈夫です。

口の占断

口口は吉凶併せ持ちます、悪い場合は愚痴や不満を口に出し、良い場合はそれを言いつつも、しぶとさや我慢強さで生き残れるタイプであります。

他の部分と合わせて観るのが良いでしょう。僕の今までの経験則で言わせてもらえると4:6、3:7よりで凶シフトなんですが、渋沢栄一氏は良い方に出たようで良かったです。

渋沢栄一氏の面相での占断

頑固親父面相のみから渋沢栄一氏を判断するならば、意志力が強く、頑固ではあるが自分の信じた道を突き抜けれるタイプ。

悪路もあるがそれを乗り越えれる踏ん張りがあり、成功する事が出来る。ただ周りにいた人間はそこそこ大変だったんじゃないかなぁという気がします。考えを良くも悪くも曲げる人ではないので。

ポイント

  • 目的達成能力が高く、逆境も乗る超えるほどの踏ん張り力がある。
  • 意志が強いが故周囲の人は振り回されて大変だったかも。

それでは最後の項目です。

3.渋沢栄一氏から何を学ぶか

渋沢栄一渋沢栄一氏の名言にこんな言葉があります。

渋沢栄一
世の中の事はすべて心の持ちよう一つでどうにでもなる

という言葉です。

これは頼もしい言葉ですし、僕もその通りだと考えます。アントニオ猪木氏の「元気があればなんでもできる」の同意語です。

結局、自分次第、自分がやる気があったらどんな事でも出来るよ!と彼らのような成功者は言ってくれてるのですから、僕らも重い腰をあげて、自分が今敬遠していた嫌な出来事に取り組んでいきましょう。それが成功への第一歩です。

新一万円札の顔に敬意を表し、今日は終わりにしましょう。

ポイント

  • 「世の中のことは全て、心の持ちようでどうにでもなる」という言葉の通り、自分次第でやる気があったらどんな事でも出来るという気持ちが大切。
  • 自分が今敬遠していた嫌な出来事に取り組んでいきましょう。
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